サトウタナカの手記

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愛はテクニックなのか? 『エーリッヒ・フロム, 愛するということ』の感想

 

 

次第

 

1. どんな本?

 愛という言葉は、古今東西、老若男女、実に様々な場面で語られる。All You Need Is Love、エリーゼさんのためだったり、会いたくても会えなかったり、絵画や映画、小説でも好まれるテーマのひとつだ。我々のような一般人も、関心の高い事柄である(本稿執筆時において、Googleの検索結果、”愛”:1,520,000,000件、”政治”:543,000,000件。ちなみに”金”:3,370,000,000件、"お金":635,000,000件)。人生には愛さえあれば良いと謳う人さえいるし、兎角何かキレイなものとして扱われる。

 しかし、そもそも”愛”とは何なのだろうか。

 本書は、表題の通り、愛するということについて、『自由からの逃走』の著者としても有名な精神分析学者エーリッヒ・フロム(Erich Seligmann Fromm)が論じたものである。愛するということを知力と努力によって養うことが出来る”技術”であると考え、その理論や実際的な習得について書かれている。第1章「愛は技術か」から始まり、第2章「愛の理論」、第3章「愛と現代西洋社会におけるその崩壊」、そして第4章「愛の習練」へと続く。一般向けに書かれた本であり、分かり難いと感じる箇所は殆どない。恋愛関係の内容を期待して読むとがっかりするかもしれない。恋愛についても語られる部分はあるが、あくまで愛における一つの形としてである。記述については専門用語を極力排して記されたためか、本の前半こそ論理的な展開であると感じたが、後半では、学者の書いたエッセイという印象を受けた。精神分析学者の著作とはいえ、愛という定義すら困難な感情(行動)を扱うのだから、科学的な考察が難しいのは当たり前かもしれない。勿論、内容が薄いわけでは決してない。人に対してであろうと物事に対してであろうと、愛に関して悩んだり考えたりした経験のある人ほど、本書を読み終わったとき、感じるものがあるのではないだろうか。

 なお、愛するということ(原題:The Art of Loving)は1956年に出版されており、彼が本書の中で述べる"現代社会"は、当時の欧米を指すと思われる。

 

Keywords: 愛, 友愛, 自己愛, 親子関係, 人間関係

この本が関係しそうな問い

  • 愛とは何か?
  • 愛は生来的なものか、学び身に着けるものか

 

2. 愛とは技術なのか、それとも快感なのか

 自分がこの本を手に取ったのは、愛という言葉をよく耳にはするが実際の愛が何なのか、人によって多種多様であると思ったからだ。本人は愛情からの行動であると言っていても、実際には自分本位な満足でしかない。スケールは違えど、映画ミザリーのような”愛”は、存外どこにでもあるように感じている。

 本書の冒頭でも、愛は技術なのか、それとも快感の一種なのだろうかという問いから始まる。当然、本書では前者の立場を取るが、現代人の多くは後者を信じているとしている。そして現代人が愛について学ぶべきことはないと考えるのは、次の前提があるからだと主張する。(1)多くの人は愛の問題を愛する能力の問題ではなく、愛される問題としてとらえている。つまり重要なのは、どうすれば愛される人間になれるか、ということである。(2)愛の問題とは対象の問題であって、能力の問題ではない、という思い込み。(3)「恋に落ちる」という最初の体験と、愛する人と共に生きるという持続的な状態を混同している。

 非常に面白いと思ったのは、筆者が「人々はこう思っている。愛することは簡単だが、愛するにふさわしい相手、あるいはその人に愛されたいと思えるような相手を見つけるのは難しい、と」と指摘し、現代社会の発展と関連した理由を挙げている箇所である。伝統的な社会、自由恋愛の少なかった社会では、結婚は双方の家や仲人によってまとめられる、つまり社会的な配慮に基づいて決められる。つまり夫婦間の愛は、結婚した後ではじめて生まれるのである。

 しかし、現代において人々は、恋愛、すなわち個人的体験としての愛を求めている。したがって、愛する能力よりも、愛する対象の重要性が大きくなったのである。そしてもうひとつ、私たちの社会は購買欲と互いに好都合な交換という考え方によって成立する。つまり、恋愛市場という訳である。人々にとっての魅力的な異性は、「お目当ての商品」であり、恋愛対象は自分と交換することが可能な範囲の「商品」ということになる。だから人々は自分にとっての「お買い得商品」を探す。物質的な成功が特に価値を持つような現代社会では、こうした人間の愛情関係までもが、商品や労働市場を支配している交換パターンと同様であるとしても、驚くには値しない、としている。

 こうした前提に基づいた恋愛感情では、近年所謂”ルッキズム”としてメディアが囁く考え方や、数年前にSNS上で話題になった"負の性欲"も説明が出来る。相手の見た目や表層だけで勝手にその商品価値を下す方が効率的だ。また、自分が恋愛対象としている相手の市場価値が低いと思われると、自分の市場価値も低いものだと思われる。逆に、皆が羨むような商品と付き合えれば自分も商品価値が高いことになる。だからこそ、自分の愛するという能力よりも、自分が”愛”を与えるに相応しい対象の選定が重要になる訳だ(こんなことを意識して考えてはいないだろうが)。

 ”蛙化現象”もこの切り口から考えることが出来るだろう。ショーケースを外から見ていた時には素敵だと思っていた商品が、実際に手に取ってみると粗を見つけたり、自分には似合わなかったりする。あるいは、欲しかった商品を手に入れてしまったら、一気に興味が覚めたという心理なのかもしれない。

 こうした恋愛市場の考え方は、現代社会にある意味では適応した考え方なのかもしれないが、むしろ恋愛を終えた後、愛するという技術においては、それを妨げる可能性があるということだ。

 

3. 愛の能動的な性質

 本書では愛の能動的な性質として、まず『与えること』であり、そして『配慮』『責任』『尊重』『知』を挙げている。

 愛は何よりも『与えること』であり、もらうことではない、らしい。そして、与えることとは、何かを諦めたり、犠牲にすることではない。与えることは犠牲を伴うことだからこそ美徳である、という考え方をする人もいる。与えることよりも、剝奪に耐えることに価値を見出すという訳である。また、先程のような市場原理を信じる者は、見返りがある時に与えることをする。所謂ギブアンドテイクだ。そして与えたのに報酬がなければ、裏切られたと感じる。

 このような段階を抜けて、生産的な人格を持った人は、与えるという行為を通して、自分の持てる力と豊かさを実感する。与える人は、自身の生命力と能力の高まりに喜びを覚える。自己効力感を感じている、とも言えるのだろうか。たくさんのモノを持っている人が豊かなのではなく、沢山与える人が豊かなのだ。

 『配慮』は分かりやすい。本書では例として母親と子供が挙げられており、子供に食べ物を与えたり、子供の安全を気に掛けるといったことをしない母親が、いくら子供を愛していると言っても、その言葉は信じられないだろう、としている。

 また、ここでの『責任』とは、外部から押し付けられる義務のようなものではなく、他人の要求に応じること、または応じる用意があるという意味である。子供が食べ物を食べたいと言えば応じたり、恋人の精神的な要請に答えたり、といったことが愛することであるという。自分はこの責任の要素については、しっくりきていない。親しい人から頼られた時、それに可能な限り応じるのが情であろう。しかし、当人の抱える問題についての結果にまで、責任を持つべきではない。問題や責任について自他の区別を守らなければ、愛し合う関係から、容易に依存的な関係へと変化してしまうだろう。

 『尊重』の要素が欠けてしまうと、責任は容易に支配や所有へと変わってしまうという。尊重とは、その人がその人らしく成長や発展をしていくように気遣うことである。そこには、相手を利用しようとする意図はない。これは私的な考えであるが、尊重の欠落は親子関係に屡々みられる現象ではないだろうか。支配的な親というのは所謂厳しい親として、いつの時代も居るだろう。彼らは自分がそうされたように子供を様々な規範で縛り付ける。それは責任感から生じる場合もあるだろうが、相手の人格への配慮がなければ、愛よりも支配の要素が色濃くなる。

 最後に『知』である。個人的には、相手を尊重し配慮するためには、自然に相手のことを知る必要が生じるため、これらと同列の要素として挙げるのは不自然に感じる。ここでの知は相手のことをよく知るというだけでなく、相手がどのような心理状態にあるか察する力も指している。この要素は果てがない。相手のことを知ろうとしても際限がなく、相手が自分の言葉をどう感じたかや、相手が緊張しているのか不安を感じているかなど、これらは経験を積まなければ養えない能力である。後者に関しては、相手がどう感じているかそもそも関心のない人間、つまり無神経な人間では、能力を養うこと自体が難しいであろう。

 これらの『配慮』『責任』『尊重』『知』は互いに依存しあっている。そしてこれらの態度は、成熟した人間にのみ見られる態度である。

 

4. 親子の愛

 父親の愛と母親の愛における性質が区別されて考察されているのが面白かった。これらはマックス・ヴェーバー的な意味での理想型、つまり母親や父親の姿として現れる母性原理及び父性原理について述べるとしている。

 母親の愛情とは無条件である。これは大地にそそぐ太陽の光、神の恵みのように素晴らしいことでもあるが、否定的な側面もある。それは無条件であるがゆえに、それをコントロール出来ないことである。これは大変恐ろしいことであると思う。愛情を注いでくれない母親に対して、子供は全くなすすべがない。いくら母親に愛してもらおうと彼女の望む通りに振舞ったとしても、それは既に条件付きの愛情である。また先程挙げた愛の要素が欠けていれば、子供は歪な愛を受け続けることになる。完璧な親などいないが、自分への配慮や尊重に欠けた親が自分に親子の愛情を訴えてきても、戸惑いと怒りを覚えるだろう。

 一方で父親の愛情とは条件付きの愛情である。父親の期待に答えられれば愛を受けるが、答えられなければ愛を失う。服従こそが最大の美徳であり、不服従は最大の罪となる。父親は、自分の期待に応え、義務を果たし、自分に似ている子供に愛を与えるという訳だ。父親の愛情により、適切な社会通念を学ばせることは大人になる上で必要なことであり、父親は自分の学び取った価値観を子に伝えることが出来る。この父親の愛情を押し付けず、前述の愛の要素を尊重し、かつ子供自身に資質があれば、「鳶が鷹を生む」ことになりそうである。逆に父親の愛情が支配的であれば「蛙の子は蛙」になる。

 また当然、悪い面も考えられる。親自身に偏った価値観や根拠のない思い込みまで子供に伝えれば、子供が大人になり学校を出て一般社会に揉まれる中で、自身が継承した歪んだ価値観に苦しむことになるだろう。さらに子供が自分の期待に応えることを望むからと言って、自分の方法に従わなかった子供を脅しつけたり、その結果の失敗を嘲笑してはならない。子供は父親の愛が欲しくて従うのではなく、自身の安全のために従うようになり、適切な親子の信頼関係が築けるはずがない。

 これらの愛の形の理想形として、以下のように語られている。

 母親は子供の生命力を信じなければならない。心配しすぎて、その心配が子どもに伝染するようなことがあってはならない。子供が独立し、やがて自分から離れていくことを願わなくてはならない。

 父親の愛はさまざまな原理と期待によって導かれるべきであり、脅したり権威を押しつけたりするのではなく、忍耐づよく、寛大でなければならない。

 

エーリッヒ・フロム著, 鈴木晶訳, "愛するということ", 紀伊國屋書店, p.72, (2020)

 こうした理想的な愛を受けて育った子供は、父親の権威から離れ、自分自身が自分の権威となり、自身の内部に母親像、父親像をつくりあげるようになる。

5. 自己愛

 自己愛については、個人的によくあるテーマだと思うのだが、利己主義と自己愛が比較される。彼はこれらが類似するものではなく寧ろ、自己愛が欠如しているために利己主義的になるのではないか、と仮説を示す。

 他人へ向ける愛と自己へ向ける愛は排他的な関係にはなく、基本的に両者は結びついており、これらは不可分なものである。また、愛とは、人間的な特質が具体化されている愛する人(個人)を根本的に肯定することである。よって個人を愛するということは、人間そのものを愛するということになる。おり、これを敷衍すると、人間そのものを愛するということが、特定の個人を愛することの前提であると考えられる。ここには勿論、自己自身も含まれる。個人的にこの考え方は呑み込めないし、論理が飛躍しているように思う。人類愛とでも言うべきか、人間に対する基本的な信頼や肯定、関心がなければ、特定の個人に対しても信頼を置くことは出来ない、ということだろう。この箇所では、自分の家族は愛するが他人には関心がないという態度、ウィリアム・ジェイムズの「分業」という考え方にも触れている。自分はこちらの態度の方がはるかにまともで妥当だと感じる。

 利己的な人間は、こうした人間全般に対する関心が無いように見える。他人の欲求には興味がないし、他人の人格や個性を尊重することもない。自分しか見えていない。筆者は、これが自分を愛しすぎる故ではなく、愛さなさすぎるからだ、と指摘する。フロイトの考え方を引用し、利己的な人間はナルシシズム傾向が強く、他人を愛せないが同時に自分のことも愛せないと語る。

 面白いのはここで、神経症的な非利己主義的な人間についても考察を加えている点である。筆者は、非利己的な人は、自分を大事に思わないことを誇りにさえ思っているが、非利己的であるにもかかわらず幸福にはなれず、周囲の人々との関係に満足できないため困惑する、としている。結局、非利己主義は屈折した利己主義であり、彼らは何かを楽しむことや愛することが出来ず、人生に対して憎しみを持っている。先程の考え方を応用すれば、非利己主義的な人間は自分に対して関心や尊敬の念を持てず、故に他人に対しても、そして人間一般に対しても関心や尊敬の念を持てないか、自己に向けたものと同じように屈折した関心を持っていることになる。

 これらの神経症的な症状を克服するためには、生産性の欠如を治癒することが必要であるとする。生産性を持つ人間とは、自分の中に息づくものを与えられる人、与えることで自分自身の力と豊かさを実感する人、つまり愛することの出来る人である。

5. 最後に

 学術的な本ではないが、読んでいて非常に勉強になる本だった。この本や各章のテーマ自体はよく見るものであると感じるが、新たな視点や気付きを与えてくれる。もしかすると、自分が適切な愛を与えられなかった、または受け取れなかった”当事者”であると感じる人が、該当する箇所を読むときには、辛くさえ感じるかもしれない。

 当たり前ではあるが、本書の中には、これまで私が書き付けてきた内容がより詳しく、正確に書いてある。またある程度体系的にも記されているので、内容が幅広く、また読みやすいはずだ。愛の理論の中で、愛の対象として母性愛や神への愛についても論じており、非常に興味深い。愛について思うところのある方は、是非読んでみることをお勧めする。

 量としても200頁ほどで、そんなに長い本ではないです。