サトウタナカの手記

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妬みか、事実か。 『ジェフリー・フェーファー, 悪いヤツほど出世する』の感想

 

 

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1. どんな本?

 車道をすれ違う趣味の良い高級車や、高級住宅街にある豪邸を見て、どんな悪いことをしたらあんな稼げるんだろうと思ったことは無いだろうか。お金持ちほど後ろ暗いことをしているはずだ、という揶揄が込められた昔からある言葉だ。果たしてこの言葉は真実なのだろうか。

 自分が子供のころ、知らない大人が似たようなセリフを言っているのを聞いて、半分は真実かもしれないが、半分は偉くなれなかった人間の妬みであろうと思っていた。自分が大人になってこの言葉をもう一度考えてみると、やはり自分も『悪いヤツほど出世する』のは本当だと思っている。そしてその自分の考えもまた、世間で大した地位を獲得できなかった人間の、妬み僻みかもしれないが。

 金、権力、女(男)は、多くの人が抱く、普遍的で分かりやすい欲望である。そしてこれらは大抵の場合セットだ。お金があるから権力があり、権力があるからお金を集められる。すると異性からも注目される。これらに共通するひとつの要素は承認である。金はそれ自体が共通通貨として承認されているから価値があり、異性から価値を承認されることは所謂モテに繋がる。そして権力もまた、特定の職業や職位を多くの人が価値あるものとして承認するからこそ、そこに力が生まれる。”出世する”とは、つまり承認を同じグループの人間から得る過程であるとも解釈できる。

 前置きが長くなったが、本書は表題の通り、『悪いヤツほど出世する』ことに関して、我々がリーダーに対して抱いている誤解を解き、職場の”悪いヤツ”から身を守るためのアドバイスを授けてくれる。筆者はスタンフォード大学ビジネススクール教授を務めたジェフリー・フェファー(Jeffrey Pfeffer)で、本の内容は体系的に整理されているものの、やや講義のような語り口をしているように感じる。原題は”Leadership BS: Fixing Workplaces and Careers One Truth at a Time”であり、邦題とは少々異なる。翻訳は村井章子による。恐らくこの邦題は翻訳者によるものと想像するが、内容を読んでみると、この邦題の方がしっくりとくるし、何より好奇心を刺激するタイトルだろう。

 訳者である彼女の言葉を借りれば、本書は皆が薄々感じていることをデータに基づいてずばずば言ってのける、爽快な内容である。そう、本書によれば悪いヤツほど出世するのは、事実であるらしい。一般的にリーダーに必要とされている素養、謙虚・自分らしさ・誠実・信頼・思いやりといった事柄について、皆が想像するリーダー像と実際のリーダーとのギャップを示し、具体例を挙げながら、なぜそうなのか、なぜその方が良いのかを説明していく。

 

Keywords: 組織行動学, 処世術, 権力, リーダー教育

この本が関係しそうな問い

  • 悪いヤツほど出世するのは本当か?
  • リーダーに必要な資質とは?

2. 謙虚なリーダーの方が良い?

 率直な自分の考えをまず述べたい。ナルシストな人間達は、職場において自分の利益を目敏く守り、自らの非は認めず、気弱そうなターゲットを見つけては高圧的な態度や陰湿な方法で攻撃し、あらゆる手段で自分の優位を誇示する。同僚からは嫌な奴と思われるだろうし、彼らが語る自身の能力や実績と実際の姿とは大きく異なるだろう。言い方は悪いが、弱い犬ほどよく吠える、つまり能力が高ければ自身を誇大広告する必要は無い訳である。自分は、このような人間を世の企業・官公庁の幹部達は本当に評価しているのか疑問だった。それに、単純に組織全体で考えれば、この手の人間はいない方が効率は良くなるのではないか、とも考えていた。実際には有能でないにもかかわらず自身を誇張し、さらに周囲の人間を委縮させているのだから、集団全体の効率が下がり、組織にとっては好ましくない人材だろう。

 この本によれば、私のこういった考えは、概ね間違いではないが実情とは異なるらしい。実際にはナルシストなリーダーの方が多いし、自信過剰は出世に有利であるという。

 そもそも、謙虚なリーダーはなぜ良いのだろうか。ひとつは、当たり前のことだが皆それぞれが潜在的自尊心を持っているからだ。他人の仕事に駆り出された時や上司から命令されてやる仕事よりも、自分の仕事をするほうが誰でもやる気が出る。つまり自身の能力を尊重してもらった方が、あるいは仕事を任せてもらえた時の方がやる気が出るということだ。また、”授かり効果”と呼ばれるものがある。自分が所有するものにより価値を感じる、言い換えれば自分が既に得ている利益が損なわれることを避ける心理である。リーダーが部下の能力を認めず仕事を任せなければ、または部下の業績や手柄を自分のものにしていたら、部下がやる気を失うのも当然のことだろう。

 さらに、対外的な状況について考えてみる。本書では、しつこく自己宣伝する人は他人からの評価が良くない一方で、自分の能力や実績を控えめに語る人は好感度が高いという。さらに別の調査では、自慢の多い人間ほど能力が低いという結果が出ているらしい。ここまでの内容から考えると、先ほどの私見はそれほど間違いではないようである。しかし、本書はこれらの記述に続き、なぜ謙虚でないリーダーはもっとよいのか? と展開していく。

3. ナルシストなリーダーの方が有利である理由

 まず断っておきたいことがある。本書における”ナルシスト”は、恐らくではあるが、日常で使うような意味ではない。心理学では「自己愛性人格障害」と呼ばれることにも触れ、研究成果からリーダーのナルシスト度と謙虚度を知ることが出来ると述べている。自己愛人格目録(NPI)というテストが開発されていることや、調査で具体的にどのようなデータから”ナルシスト度”を評価したかも説明される。本書では”性格”というかなり繊細なものを考察対象とした内容である。また、実験の対象者をひとりひとり調査した訳ではないだろう。しかし、考察は十分に科学的であったと考えられる。

 まずリーダーになるまでの過程について、ナルシスト型の行動は有利に働き、自信過剰の方が成功しやすい、と本書では主張する。なぜなら往々にしてリーダーの役割というものは何をすべきか具体的ではなく、したがってどのような人物がリーダーに最適なのかよく分かっていないからだ。それどころかリーダーが良くやっているかさえ、明確には判断が難しい。こうした状況では、自信満々に決断するナルシスト型の方が、有能であると印象付けやすい。また、最初に強い印象を受けると、第一印象と一致しない情報は無視され、一致する情報は過大評価されるようになる。こうした心理の働きは”確証バイアス”と呼ばれる。最初に優秀な人材であると印象付ければ、相手は勝手に都合の良い情報を集めてくれるという訳だ。つまりリーダーの役割が不明瞭である以上、自信満々に振舞う人間がいれば、有能なリーダーであると印象付けることが出来、人によっては本人の言葉を鵜呑みにしてしまう。そうすれば、集団の中での発言力は益々強くなる。また、過剰な自己宣伝は印象としてマイナスであるが、リーダーを選ぶ側に対して存在をアピールすることは出来る。少なくとも、存在感が無くては候補にすら挙がらない。自分を売り込むには、謙虚さをかなぐり捨てて、自分はその地位や報酬に相応しい人間であると思わせることが必要である。まだ社会的な地位や立場が確立していない人間が謙虚に振舞うと、不安や無能力の表れであると受け取られる可能性がある。

 またリーダーになってからもナルシスト型は有利であるとされる。本書によれば、ナルシスト型リーダーが率いる組織の業績は、そうでないリーダーが率いる組織を上回っている。ナルシスト型のリーダーは、部下と軋轢を起こしがちであるものの、コミュニケーション能力(!)、創造性、戦略的思考の点では高く評価されているらしい。さらに、ナルシスト型のCEOは他の経営陣よりも報酬の差が大きく、在任期間も長い。

 私の記憶では、日本で以前、CEOによるアメリカの大学卒業スピーチを聞いて哲学を学ぶことが流行っていたことがある。スティーブ・ジョブズスタンフォード大学で行った”Stay hungry, Stay foolish”スピーチなどが有名である。当時はすごい人がいるものだと感心してスピーチを聞いていたが、よくよく考えてみれば、スピーチの内容は経済やマネジメントというよりは人生全般についてであった。賢人の言葉ではあるのだろうが、彼らは良い人生を歩んだから有名になったのではない。会社経営で秀でたため有名になったのである。極端なことを言えば、有名サッカー選手から野球の話を聞いているようなものだ。今考えると、そこまで有難がるものだったのか疑問である。自分以外にも彼らの言葉に熱心に耳を傾ける人間が多かったのは”確証バイアス”のためだったのではないかと、今は思う。

4. 与える人こそが成功する?

 過去にベストセラーになった『アダム・グラント, GIVE & TAKE「与える人」こそ成功する時代』では、本書と一見矛盾する主張をしている(こちらの本も既読)。この本の主張では利他的な人間をGiver、利己的な人間をTaker、そして損得のバランスを取る人をMatcherとしている。そして社会的にはGiverが最も成功しており、次いでTaker、そして最も多いタイプとされるMactcher、さらに最も成功していないのは自己犠牲的なGiverであるとしている。

 本書ではこのベストセラーにも触れており、この一見相反する主張は、母数の問題であるとも示唆している。社会には利他的な人間は相対的に少ない一方で、ナルシストな人間は実際には多く、特にリーダーには珍しくない(本書ではここ数十年で大学生のナルシスト度は大幅に上がり、またアメリカ人のナルシスト度は他国の人々に比べて高いとする調査結果に触れている)。つまり、そもそも職場に”Giver”は滅多に居ないのである。

5. 大抵のリーダーは噓をつく

 優秀かつ正直で高潔なリーダーも存在するとしつつ、実際は大抵のリーダーは嘘をつくし、真理を追究する学問の世界でさえ嘘は珍しくないと言う。

 なぜ彼らは嘘をつくのか。それは、滅多に罰せられないからである。

 自分はこの短い回答に非常に納得した。経歴詐称などで問題となり辞職したリーダーは居るが、際立った実績を挙げていた場合や、人々が信じたい嘘をついた場合には、リーダーにとって深刻な事態にはなり難いという。著者は嘘をついていたとされるリーダーを産学官それぞれについて具体例を挙げている。特に競争の激しいソフトウェア産業においては、競争相手が嘘をついているのに自分たちが正直では太刀打ちできないことを、嘘がまかり通る理由の一つとしている。嘘とまで言って良いのか疑問であるが、日本においても、ビッグタイトルのゲームが発売延期を発表することは珍しくない。単純に開発予定が遅れているだけかもしれないが、そこにはリーダーの無茶な発言や、企業としての商戦といった事情が隠れているのかもしれない。

 引用の引用となってしまい恐縮であるが、本書にはこんなことも書いてある。

リーダーは自信をもって嘘をつくし、たとえ露見しても自信をもって釈明する。なぜなら「権力を持っていると、嘘や不誠実に伴うストレスは和らげられる……権力を持つとすべてが思い通りになると錯覚し、その錯覚によって確信犯的にもっともらしい話をこさえられるようになる……しかも大きな権力を持つと、社会的な規範を無視するようになり、そうした規範は自分には当てはまらないと考えるようになりがち*17」だからである。

 

ジェフリー・フェファー著, 村井章子訳, 日経ビジネス人文庫, 2018, p162.

*17は D. R. Carney et al., "The Deception Equilibrium: The Powerful Are Better Liars but the Powerless Are Better Lie-Detectors" (unpublished manuscript, 2014), 2.

 実際、権力を使えば嘘が後々現実になったり、嘘を正当化したり、露見しても責められなかったりする。まさに罰せられないのである。実際に顔を合わせたことの無い政治家から、私たちが日常的に接触するリーダーまで、このような傾向は少なからず持っているのではないか……と個人的には感じている。そして権力があればあるほど、この傾向は強くなるのではないか。

 また、権力者のこのような心理から、リーダーになってからナルシスト型の振る舞いが強くなるという人間も少なくないのではないかと考えられる。出世すれば自分のことを面と向かって批判する人間は減るのが一般的だ。周りはイエスマンばかりで、自分の言動は常に正しいと思い込みがちになる。自分のための嘘も、組織のためだと自分に言い聞かせれば権力を使って押し通すことが出来る。客観的に見れば、それは利己的な行動にも関わらず、である。後天的なナルシストは、こうして出来上がるのかもしれない。

6. 私たちはどう振舞うべきか

 では、”悪いヤツ”にどう対処すればよいのだろうか。

 私が特に興味を惹かれたのはふたつ。

 まず、他人の言葉ではなく行動を見ること。これまで本項でも述べたように、本書によればリーダーにはナルシスト型の人間が多く、大抵のリーダーは嘘をつく。つまり言行は不一致である。彼らが語ることが全て噓だとは考えにくいが、彼ら自身に有利になるように脚色されている可能性は大いにある。彼ら自身が語る言葉ではなく、彼らの行動や実績にこそ注意を払うべきである。実際に話す機会があればなおさら良い。詰まるところ我々は、他人の言葉を信じるよりは、自分の目で見て、自分で聞いたことを基に判断すれば上手く行くらしい。

 もうひとつは、ときには、悪いこともしなけらばならない、と知ることである。本書でこの言葉を見つけた時には笑ってしまった。あまりにも正直だと感じたからだ。良い結果を得るためにはよからぬことをせざるを得ない時もあるという。善人ばかりでない世の中で競争に勝つためには、必要とあらばよからぬ人間になることを学ばなければならない。この節ではさすがに他の節ほど具体的には方法について語られていない。具体例のひとつとしては、サッカーの所謂シミュレーションが挙げられている。勝つためには、相手側からさも反則行為を受けたように演技をする必要もあるとあるメディアが語ったという。これは恐らく、リーダーになりたいという人へのアドバイスであろう。

 本書では他にも、「こうあるべきだ」(規範)と「こうである」(事実)を混同しない、普遍的なアドバイスを求めない、「白か黒か」で考えない、許せども忘れず、といったことについても説明をしている。

7. 最後に

 本書では、なぜ悪いヤツほど出世するのか、具体例や研究を紹介しながら詳細に説明してくれる。正確には、アメリカのリーダー教育で指導する内容と、実際のリーダーの言動が異なることを指摘し、私たちに自分の身は自分で守るよう勧める。

 内容は、少々くどい部分や、具体例に納得できないと感じるものもあったが、薄々思っていたことをデータと共にハッキリと述べてくれるため、ある種痛快であった。また、少々飛躍したものの見方かもしれないが、悪いもののような言い方をされる”ナルシスト”といった性格特性も、要は使い方次第である、ということかもしれない。

また、本書での”リーダー”は、部下に対する関係として上司や幹部、CEOまでひとまとめにされている印象を受ける。実際の中間管理職の方からは「そう単純じゃない」とツッコミが入りそうではある。

 気になった方は是非とも本書を自分で読んで頂きたいと思う。この感想では触れなかった内容や、著者の主張を支持する具体例や文献共に豊富に記されている。

愛はテクニックなのか? 『エーリッヒ・フロム, 愛するということ』の感想

 

 

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1. どんな本?

 愛という言葉は、古今東西、老若男女、実に様々な場面で語られる。All You Need Is Love、エリーゼさんのためだったり、会いたくても会えなかったり、絵画や映画、小説でも好まれるテーマのひとつだ。我々のような一般人も、関心の高い事柄である(本稿執筆時において、Googleの検索結果、”愛”:1,520,000,000件、”政治”:543,000,000件。ちなみに”金”:3,370,000,000件、"お金":635,000,000件)。人生には愛さえあれば良いと謳う人さえいるし、兎角何かキレイなものとして扱われる。

 しかし、そもそも”愛”とは何なのだろうか。

 本書は、表題の通り、愛するということについて、『自由からの逃走』の著者としても有名な精神分析学者エーリッヒ・フロム(Erich Seligmann Fromm)が論じたものである。愛するということを知力と努力によって養うことが出来る”技術”であると考え、その理論や実際的な習得について書かれている。第1章「愛は技術か」から始まり、第2章「愛の理論」、第3章「愛と現代西洋社会におけるその崩壊」、そして第4章「愛の習練」へと続く。一般向けに書かれた本であり、分かり難いと感じる箇所は殆どない。恋愛関係の内容を期待して読むとがっかりするかもしれない。恋愛についても語られる部分はあるが、あくまで愛における一つの形としてである。記述については専門用語を極力排して記されたためか、本の前半こそ論理的な展開であると感じたが、後半では、学者の書いたエッセイという印象を受けた。精神分析学者の著作とはいえ、愛という定義すら困難な感情(行動)を扱うのだから、科学的な考察が難しいのは当たり前かもしれない。勿論、内容が薄いわけでは決してない。人に対してであろうと物事に対してであろうと、愛に関して悩んだり考えたりした経験のある人ほど、本書を読み終わったとき、感じるものがあるのではないだろうか。

 なお、愛するということ(原題:The Art of Loving)は1956年に出版されており、彼が本書の中で述べる"現代社会"は、当時の欧米を指すと思われる。

 

Keywords: 愛, 友愛, 自己愛, 親子関係, 人間関係

この本が関係しそうな問い

  • 愛とは何か?
  • 愛は生来的なものか、学び身に着けるものか

 

2. 愛とは技術なのか、それとも快感なのか

 自分がこの本を手に取ったのは、愛という言葉をよく耳にはするが実際の愛が何なのか、人によって多種多様であると思ったからだ。本人は愛情からの行動であると言っていても、実際には自分本位な満足でしかない。スケールは違えど、映画ミザリーのような”愛”は、存外どこにでもあるように感じている。

 本書の冒頭でも、愛は技術なのか、それとも快感の一種なのだろうかという問いから始まる。当然、本書では前者の立場を取るが、現代人の多くは後者を信じているとしている。そして現代人が愛について学ぶべきことはないと考えるのは、次の前提があるからだと主張する。(1)多くの人は愛の問題を愛する能力の問題ではなく、愛される問題としてとらえている。つまり重要なのは、どうすれば愛される人間になれるか、ということである。(2)愛の問題とは対象の問題であって、能力の問題ではない、という思い込み。(3)「恋に落ちる」という最初の体験と、愛する人と共に生きるという持続的な状態を混同している。

 非常に面白いと思ったのは、筆者が「人々はこう思っている。愛することは簡単だが、愛するにふさわしい相手、あるいはその人に愛されたいと思えるような相手を見つけるのは難しい、と」と指摘し、現代社会の発展と関連した理由を挙げている箇所である。伝統的な社会、自由恋愛の少なかった社会では、結婚は双方の家や仲人によってまとめられる、つまり社会的な配慮に基づいて決められる。つまり夫婦間の愛は、結婚した後ではじめて生まれるのである。

 しかし、現代において人々は、恋愛、すなわち個人的体験としての愛を求めている。したがって、愛する能力よりも、愛する対象の重要性が大きくなったのである。そしてもうひとつ、私たちの社会は購買欲と互いに好都合な交換という考え方によって成立する。つまり、恋愛市場という訳である。人々にとっての魅力的な異性は、「お目当ての商品」であり、恋愛対象は自分と交換することが可能な範囲の「商品」ということになる。だから人々は自分にとっての「お買い得商品」を探す。物質的な成功が特に価値を持つような現代社会では、こうした人間の愛情関係までもが、商品や労働市場を支配している交換パターンと同様であるとしても、驚くには値しない、としている。

 こうした前提に基づいた恋愛感情では、近年所謂”ルッキズム”としてメディアが囁く考え方や、数年前にSNS上で話題になった"負の性欲"も説明が出来る。相手の見た目や表層だけで勝手にその商品価値を下す方が効率的だ。また、自分が恋愛対象としている相手の市場価値が低いと思われると、自分の市場価値も低いものだと思われる。逆に、皆が羨むような商品と付き合えれば自分も商品価値が高いことになる。だからこそ、自分の愛するという能力よりも、自分が”愛”を与えるに相応しい対象の選定が重要になる訳だ(こんなことを意識して考えてはいないだろうが)。

 ”蛙化現象”もこの切り口から考えることが出来るだろう。ショーケースを外から見ていた時には素敵だと思っていた商品が、実際に手に取ってみると粗を見つけたり、自分には似合わなかったりする。あるいは、欲しかった商品を手に入れてしまったら、一気に興味が覚めたという心理なのかもしれない。

 こうした恋愛市場の考え方は、現代社会にある意味では適応した考え方なのかもしれないが、むしろ恋愛を終えた後、愛するという技術においては、それを妨げる可能性があるということだ。

 

3. 愛の能動的な性質

 本書では愛の能動的な性質として、まず『与えること』であり、そして『配慮』『責任』『尊重』『知』を挙げている。

 愛は何よりも『与えること』であり、もらうことではない、らしい。そして、与えることとは、何かを諦めたり、犠牲にすることではない。与えることは犠牲を伴うことだからこそ美徳である、という考え方をする人もいる。与えることよりも、剝奪に耐えることに価値を見出すという訳である。また、先程のような市場原理を信じる者は、見返りがある時に与えることをする。所謂ギブアンドテイクだ。そして与えたのに報酬がなければ、裏切られたと感じる。

 このような段階を抜けて、生産的な人格を持った人は、与えるという行為を通して、自分の持てる力と豊かさを実感する。与える人は、自身の生命力と能力の高まりに喜びを覚える。自己効力感を感じている、とも言えるのだろうか。たくさんのモノを持っている人が豊かなのではなく、沢山与える人が豊かなのだ。

 『配慮』は分かりやすい。本書では例として母親と子供が挙げられており、子供に食べ物を与えたり、子供の安全を気に掛けるといったことをしない母親が、いくら子供を愛していると言っても、その言葉は信じられないだろう、としている。

 また、ここでの『責任』とは、外部から押し付けられる義務のようなものではなく、他人の要求に応じること、または応じる用意があるという意味である。子供が食べ物を食べたいと言えば応じたり、恋人の精神的な要請に答えたり、といったことが愛することであるという。自分はこの責任の要素については、しっくりきていない。親しい人から頼られた時、それに可能な限り応じるのが情であろう。しかし、当人の抱える問題についての結果にまで、責任を持つべきではない。問題や責任について自他の区別を守らなければ、愛し合う関係から、容易に依存的な関係へと変化してしまうだろう。

 『尊重』の要素が欠けてしまうと、責任は容易に支配や所有へと変わってしまうという。尊重とは、その人がその人らしく成長や発展をしていくように気遣うことである。そこには、相手を利用しようとする意図はない。これは私的な考えであるが、尊重の欠落は親子関係に屡々みられる現象ではないだろうか。支配的な親というのは所謂厳しい親として、いつの時代も居るだろう。彼らは自分がそうされたように子供を様々な規範で縛り付ける。それは責任感から生じる場合もあるだろうが、相手の人格への配慮がなければ、愛よりも支配の要素が色濃くなる。

 最後に『知』である。個人的には、相手を尊重し配慮するためには、自然に相手のことを知る必要が生じるため、これらと同列の要素として挙げるのは不自然に感じる。ここでの知は相手のことをよく知るというだけでなく、相手がどのような心理状態にあるか察する力も指している。この要素は果てがない。相手のことを知ろうとしても際限がなく、相手が自分の言葉をどう感じたかや、相手が緊張しているのか不安を感じているかなど、これらは経験を積まなければ養えない能力である。後者に関しては、相手がどう感じているかそもそも関心のない人間、つまり無神経な人間では、能力を養うこと自体が難しいであろう。

 これらの『配慮』『責任』『尊重』『知』は互いに依存しあっている。そしてこれらの態度は、成熟した人間にのみ見られる態度である。

 

4. 親子の愛

 父親の愛と母親の愛における性質が区別されて考察されているのが面白かった。これらはマックス・ヴェーバー的な意味での理想型、つまり母親や父親の姿として現れる母性原理及び父性原理について述べるとしている。

 母親の愛情とは無条件である。これは大地にそそぐ太陽の光、神の恵みのように素晴らしいことでもあるが、否定的な側面もある。それは無条件であるがゆえに、それをコントロール出来ないことである。これは大変恐ろしいことであると思う。愛情を注いでくれない母親に対して、子供は全くなすすべがない。いくら母親に愛してもらおうと彼女の望む通りに振舞ったとしても、それは既に条件付きの愛情である。また先程挙げた愛の要素が欠けていれば、子供は歪な愛を受け続けることになる。完璧な親などいないが、自分への配慮や尊重に欠けた親が自分に親子の愛情を訴えてきても、戸惑いと怒りを覚えるだろう。

 一方で父親の愛情とは条件付きの愛情である。父親の期待に答えられれば愛を受けるが、答えられなければ愛を失う。服従こそが最大の美徳であり、不服従は最大の罪となる。父親は、自分の期待に応え、義務を果たし、自分に似ている子供に愛を与えるという訳だ。父親の愛情により、適切な社会通念を学ばせることは大人になる上で必要なことであり、父親は自分の学び取った価値観を子に伝えることが出来る。この父親の愛情を押し付けず、前述の愛の要素を尊重し、かつ子供自身に資質があれば、「鳶が鷹を生む」ことになりそうである。逆に父親の愛情が支配的であれば「蛙の子は蛙」になる。

 また当然、悪い面も考えられる。親自身に偏った価値観や根拠のない思い込みまで子供に伝えれば、子供が大人になり学校を出て一般社会に揉まれる中で、自身が継承した歪んだ価値観に苦しむことになるだろう。さらに子供が自分の期待に応えることを望むからと言って、自分の方法に従わなかった子供を脅しつけたり、その結果の失敗を嘲笑してはならない。子供は父親の愛が欲しくて従うのではなく、自身の安全のために従うようになり、適切な親子の信頼関係が築けるはずがない。

 これらの愛の形の理想形として、以下のように語られている。

 母親は子供の生命力を信じなければならない。心配しすぎて、その心配が子どもに伝染するようなことがあってはならない。子供が独立し、やがて自分から離れていくことを願わなくてはならない。

 父親の愛はさまざまな原理と期待によって導かれるべきであり、脅したり権威を押しつけたりするのではなく、忍耐づよく、寛大でなければならない。

 

エーリッヒ・フロム著, 鈴木晶訳, "愛するということ", 紀伊國屋書店, p.72, (2020)

 こうした理想的な愛を受けて育った子供は、父親の権威から離れ、自分自身が自分の権威となり、自身の内部に母親像、父親像をつくりあげるようになる。

5. 自己愛

 自己愛については、個人的によくあるテーマだと思うのだが、利己主義と自己愛が比較される。彼はこれらが類似するものではなく寧ろ、自己愛が欠如しているために利己主義的になるのではないか、と仮説を示す。

 他人へ向ける愛と自己へ向ける愛は排他的な関係にはなく、基本的に両者は結びついており、これらは不可分なものである。また、愛とは、人間的な特質が具体化されている愛する人(個人)を根本的に肯定することである。よって個人を愛するということは、人間そのものを愛するということになる。おり、これを敷衍すると、人間そのものを愛するということが、特定の個人を愛することの前提であると考えられる。ここには勿論、自己自身も含まれる。個人的にこの考え方は呑み込めないし、論理が飛躍しているように思う。人類愛とでも言うべきか、人間に対する基本的な信頼や肯定、関心がなければ、特定の個人に対しても信頼を置くことは出来ない、ということだろう。この箇所では、自分の家族は愛するが他人には関心がないという態度、ウィリアム・ジェイムズの「分業」という考え方にも触れている。自分はこちらの態度の方がはるかにまともで妥当だと感じる。

 利己的な人間は、こうした人間全般に対する関心が無いように見える。他人の欲求には興味がないし、他人の人格や個性を尊重することもない。自分しか見えていない。筆者は、これが自分を愛しすぎる故ではなく、愛さなさすぎるからだ、と指摘する。フロイトの考え方を引用し、利己的な人間はナルシシズム傾向が強く、他人を愛せないが同時に自分のことも愛せないと語る。

 面白いのはここで、神経症的な非利己主義的な人間についても考察を加えている点である。筆者は、非利己的な人は、自分を大事に思わないことを誇りにさえ思っているが、非利己的であるにもかかわらず幸福にはなれず、周囲の人々との関係に満足できないため困惑する、としている。結局、非利己主義は屈折した利己主義であり、彼らは何かを楽しむことや愛することが出来ず、人生に対して憎しみを持っている。先程の考え方を応用すれば、非利己主義的な人間は自分に対して関心や尊敬の念を持てず、故に他人に対しても、そして人間一般に対しても関心や尊敬の念を持てないか、自己に向けたものと同じように屈折した関心を持っていることになる。

 これらの神経症的な症状を克服するためには、生産性の欠如を治癒することが必要であるとする。生産性を持つ人間とは、自分の中に息づくものを与えられる人、与えることで自分自身の力と豊かさを実感する人、つまり愛することの出来る人である。

5. 最後に

 学術的な本ではないが、読んでいて非常に勉強になる本だった。この本や各章のテーマ自体はよく見るものであると感じるが、新たな視点や気付きを与えてくれる。もしかすると、自分が適切な愛を与えられなかった、または受け取れなかった”当事者”であると感じる人が、該当する箇所を読むときには、辛くさえ感じるかもしれない。

 当たり前ではあるが、本書の中には、これまで私が書き付けてきた内容がより詳しく、正確に書いてある。またある程度体系的にも記されているので、内容が幅広く、また読みやすいはずだ。愛の理論の中で、愛の対象として母性愛や神への愛についても論じており、非常に興味深い。愛について思うところのある方は、是非読んでみることをお勧めする。

 量としても200頁ほどで、そんなに長い本ではないです。

 

重要なのは成果や成功ではなく、行為 『ロルフ・ドベリ, Think clearly』の感想

 

Think clearly 最新の学術研究から導いた、よりよい人生を送るための思考法
 

 

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1. どんな本?

 著者であるロルフ・ドベリ(Rolf Dobelli)が”はじめに”で述べている通り、彼の「思考の道具箱」が記された本である。実際の生活で使用できる52の考え方の道具が収められている。本書では一貫した思想と言えるほどの背景は感じられない。あるとすれば実生活に役立つという実際主義的な思想である。単純に各章の内容を比較すると、矛盾と思われる部分もある。少々語弊があるかもしれないが、実生活を豊かにするために、著者の考える有用な考え方を様々な分野から集めてきた、といった印象だ。まさに道具箱である。この本にあるアイデアをどう使うのかは、読み手に託されている。

 本書の"道具"の出展について、”おわりに”の節で語られる。ひとつは心理学、二つ目はストア派の思想、三つめは投資関連書籍である。本文中に度々、ウォーレン・バフェットセネカの言葉が引用される。

 そして大切なことだと思うのだが、よい人生とは何か?という問いに対して、著者は「わからない」としている。とても誠実な答えだ。少なくとも彼は、従来のビジネス書にあるような社会的成功や経済的成功が豊かな人生であるとは考えていない。成功の定義は時代によって変わるものであるし、「物質的な成功を手に入れられるかどうかは、偶然によって決まる」と断じる。本書の内容には、現代に”流行っている”成功哲学について、こうした暗黙的な批判も含まれているように自分は感じる。

 そして彼は、よい人生が何なのかは分からないが、その秘訣は内なる成功にあるとする。すなわち平静な心を手に入れ、内面的な充実を図ることである。

 なぜCEOがわざわざ高価な腕時計を買うのか。それは自分の手首を眺めて、あるいはその腕時計に向けられる羨望の眼差しを通して、満ち足りた気分を味わいたいからである。結局は自身の経済力によって、充足感を味わっているに過ぎない。外的な成功を求める人も、結局は、自己の内面的充実を図っているだけだ。ならば初めから遠回りをする必要はない。実業家でもある著者が言うと説得力がある。

 本書には、こうした内面の成功に向けた、実際的な思考の道具が収められている。

 

Keywords: ビジネス書, ストア派, 秘書問題, 能力の輪

この本が関係しそうな問い

  • よい人生を送るためには何が必要か?
  • 天職を見つけるにはどうすればよいか

2. 柔軟に修正すること

 本書の訳者である安原実津が「あとがき」にて、本書の第2章「なんでも柔軟に修正しよう」について目を開かれる思いをしたと述べている。自分も本書を読んでいて同じ思いを抱いた。著者は飛行機が飛行中、予定されたルートを飛んでいるのは全体の何パーセントか?という問いを例に挙げ、修正の重要性を示唆する。私達がよく知る様に、出来事が予定通りことが運ぶことはほとんどない。

 予防や準備を重ね、不測の事態に備えることこそ重要である、という見方もできる。しかし文字通り、不測の事態を予測することは困難であり、また一過性の出来事であれば予防はまだ容易だが、継続的に取り組む場合は一層難しい。著者はこうした考え方に一石を投じる。最初の条件設定ばかりを重要視し、修正を軽んじている、と。

 私たちはなぜ、計画通りに沿うことに執着しやすいのか。それは修正することが、計画が間違っていたと認めるように思えるからである。そして自分の見通しの甘さを感じ、自分を無能であると感じる。しかし前述の通り、計画通りに進むよう外乱に対して常に備えることは、困難なのである。

 大事なのは完璧な計画を立てることでは無く、必要に応じて計画をその都度修正することだ。

 著者は作家だけでなく、実業家としても活躍する人物である。個人的活動ではなく、企業における戦略など、大多数で実行する計画ほど、修正作業が難しい。それでもなお、修正が重要だと主張している訳だ。

 初期設定に執着し、完璧な計画を立てることに多くの時間を割くよりも、実行しながら軌道修正する方が、実際的である。

3. 大事な決断では、十分な選択肢を検討すること

 あなたは秘書をひとり、採用しようとしている。候補者は有限な数、n人である。あなたはランダムな順序で候補者と面接を行う。面談を行った後には、面談者に相対的な順位付けを行い、その順位に基づいて採用するか否かを決める。この決定は一度きりだ。もちろん、ベストな人材を採用したい。これは統計や数学の分野で研究される、秘書問題と呼ばれる問題である。

 この問題の適切な解法は、既に導き出されている。n/e人にまず面接をし(eは自然数)、全員を不採用にする。その後、このn/e人の中で最も優秀な人間よりも順位の高い最初の候補者を採用すれば、最も良い選択ができる確率が高いらしい。100人候補がいれば、採用の基準のために最初の37人は不採用にするのである。

 一方で、私たちの生活における決定について考えてみよう。私たちは一体、どのくらいの候補を吟味してから決定を下しているだろうか。お気に入りの映画、作家、人生のパートナー、キャリアパス。大抵の場合は、十分な数の候補を検討する前に、早すぎる決定を下すのではないか。

 ではなぜ、私たちは早い段階で決定を下してしまうのか。著者は、試すのに”労力”がいるからだ、とする。当然と言えば当然かもしれない。そしてもうひとつの理由は、決断を保留にしたまま試すよりも、ひとつずつ課題を片付けた方が、頭の中が整理できるからである。

 この考えを端的に表現すれば、まず全体像を把握してから決断すること、と言えるかもしれない。決してアタマで考えて全体像を把握しようとするのではない。実際に行動し、”全体像を把握する”目的でトライアンドエラーを繰り返すのである。

 とはいえ、恋愛や仕事など、単純に試行錯誤をするわけにもいかない出来事は人生で幾つもある。「自分にとってのベストパートナーを把握するために、恋人を作っては別れる」などということをする人間は、控えめに言って最低だろう。

 何事もこの思考法でうまくいくとは思えないが、要は使い様である。非常に重要な一度きりの選択をするとき、あるいは何度やってもうまくいかないという事態が起きたとき、まず本来の目的を一旦忘れ、全体像を把握するために試行錯誤することは有効であるのかもしれない。

4. できることを仕事にする

 「人は皆、何かしらの才能を持っている。」「内なる声(心の声、天啓)に耳を傾けよう、そうすれば自分の進むべき道が見えてくる。」著者はこういった考えを幻想であると言う。そして所謂”天職”を追い求めるのは危険な行為であるであるとする。

 アメリカ人の作家、大学教授であるジョン・ケネディ・トゥール(John Kennedy Toole)は、自分は作家になるために生まれてきたという思考を持っていた。1964年、彼は出版社に自分の書いた小説を送付する。彼自身は百年に一度の名作を書き上げたと思っていたようである。

 彼は飛び級奨学金の獲得、また英文学の修士号を僅か1年で獲得している。その後わずか22歳で、Hunter Collegeの史上最年少で教授を務めるなど、実際に学問において才気あふれる人物であったようだ。

 しかし彼の出版の申し出は拒否される。何社か出版社を当たっても、答えは変わらなかったようだ。彼は失意の中、アルコールに溺れ、1969年に自殺してしまう。彼の死後、彼の母親が原稿を出版してくれる出版社を見つけ出し、出版された彼の作品「A Confederacy of Dunces」はアメリカ南部文学の傑作と評されることになる。皮肉にも、彼は死後、その年のPulitzer Prizeを獲得することになる。本の売り上げも150万部を超えていたそうだ。

 著者は、重要なのは成果や成功ではなく、行為自体であるとする。つまり、「明日こそノーベル文学賞を受賞できるはず」と考えるよりも、「今日は3ページ書こう」と考える方が健全である。トゥールも”作家”や”小説”にこれほど執着しなければ、実際に成功した作家として名を残していたのかもしれない。(これほどの執着があったからこそ名作が生まれた、という解釈もあるのだが。)

 私たちは自分のキャリアに野心を抱くとき、何かと”成功者”に学ぼうとする。しかし大勢いるはずの挫折した人たちにも目を向けるべきだ。所謂”天才”と言われる人たちでさえ、偶然にその人生を左右され不遇のまま生涯を終える人もいるだろう。私たちは、自分が初めに選択した野心に、固執するべきではないのかもしれない。

 では、どうすればよい仕事を選ぶことが出来るのか。

 それは、誤った思い込みや心の声に耳を傾けるのではなく、実際の自分の能力に基づいて仕事を選ぶことである。「得意なもの」は「好きなもの」であることが多いし、「得意なこと」は周囲から評価を得ることが多い。

5. 世界に偉人は存在しない

 偉人や成功者、リーダーと呼ばれる人々は、私たちに希望を与えてくれる。私たちは実際にこの世界を変える力があるのだ、と。しかし私たちには本当に「世界を変える力」があるのだろうか。

 著者はこうした思想が、現世紀を象徴をする幻想的なイデオロギーのひとつであるとする。そこには、2つの誤解がある。

 ひとつ目は、フォーカスイリュージョンである(本書第13章にて述べられる)。私たちはある一つのことに集中して考えている間、それが人生の重要な要素であるように考えてしまう。しかし実際には、それは拡大された思考である。

 ふたつ目は、意図スタンスと呼ばれる概念である。

ふたつ目の思い違いは、アメリカ人の哲学者、ダニエル・デネットが提唱した「意図スタンス」と呼ばれる概念だ。「変化が起きる際には、必ず誰かの意図が働いている」という考え方のことである。そこには、実際に誰かの意図が働いているかはどうでもよい。

 

ロルフ・ドベリ著, 安原実津訳, "Think cleary", サンマーク出版, pp.395-396, (2019)

  自分が本書で最も印象に残った部分のひとつが、この箇所である。スティーブ・ジョブズがいなければスマートフォンの開発が、アインシュタインがいなければ相対性理論が、ティム・バーナーズ=リーがいなければワールド・ワイド・ウェブが。世界的な進歩や改革には、その変化をもたらそうとした”誰か”の意図があると考えてしまう。

 こうした我々の思考傾向に対し、著者は生物学的な進化をその理由のひとつに挙げる。仮に茂みの中で音がしたとき、風のせいだと考えるよりも、肉食動物や敵がいるかもしれないと考える方が安全である。そうした思考によって生き残った人々の子孫が、我々である。

 歴史上の重要人物は、その出来事における登場人物のひとりでしかない。世界の変革の歴史は、天才や偉人たちの歴史ではなく、偶然の重なりの結果でしかない。

 少々、極端な考え方だとも思うが、余りにも人ひとりの能力や業績を美化するのは、確かに不健康な考え方である。歴史上の偉人だろうと、尊敬する誰かであろうと、あるいは自分についても、外的な偶然に人生を左右されているということを心に留めるのは、適切な考えであると思う。

6. 最後に

 本書にはこうした人生における知恵が52章に渡り、述べられている。自分は本書を読んでいるときに、何となくでしかないのだが、現代に流布する思想の偏り(例えば、私たちは世界を変えられる、心の声に従う、天職を探すなど)に対する批判のように感じた。そうした現代的思想に偏るのでもなく、本書の思考方法を頑なに信じるでもなく、どちらも考慮した中庸を重んじるべきだと思うのは、自分が日本人だからだろうか。

 何れにしろ、本書に記載された”道具”をどう使うかは、読み手次第だ。多角的思考によって綴られた本書の思考方法は、ビジネス書として有益であると自分は思う。また、自分が知らないうちに陥った思考の偏りに気づかせてくれる本書は、読み物としても非常に面白い。

 

うなるイヌは怒っているのか? 『リサ・フェルドマン・バレット, 情動はこうしてつくられる』の感想

 

How Emotions Are Made: The Secret Life of the Brain

How Emotions Are Made: The Secret Life of the Brain

  • 作者:Lisa Feldman Barrett
  • 出版社/メーカー: Pan Books
  • 発売日: 2018/02/08
  • メディア: ペーパーバック
 

 

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1. どんな本?

 我々は、感情を外部環境や身体内部のある要因に対して起こる”反応”と考えがちである。そして古典心理学においては、こうした”反応”には、発汗や体温の上昇、脳の特定領域が反応する等、身体的な指標があると考えられてきた。

 しかし本書では、 『情動』が脳機能によって構築される”知覚(意識)”であると主張する。

 主題を情動はこうしてつくられる(主題原文:How Emotions Are Made)とし、これまでの本質主義的な心理学を批判し、新たな見方として、構成主義的なアプローチを提案する。

 また、副題である脳の隠れた働きと構成主義的情動理論(副題原文:The Secret Life of the Brain)の通り、身体に関する予測を行う脳機能である『内受容ネットワーク』と、感覚入力のうちどれが重要か、その判断を支援する脳機能である『コントロールネットワーク』が情動構築の鍵となる。

 著者のリサ・フェルドマン・バレット(Lisa Feldman Barrett)はアメリカ、ノースイースタン大学心理学部特別教授であり、ハーバード大学医学部マサチューセッツ総合病院研究員である。著者は大学院生当時、自己評価が下がる原因及びそれが不安や抑うつを引き起こす過程について研究していた。先行研究から得られた知見を基に実験を行ったが、彼女の研究は大失敗に終わる。しかし、その失敗したはずの一連の実験データを見返すと、新しい知見が見えてくる。この出来事が、彼女が古典的情動理論に疑問を持つ切欠となったようだ。

 また翻訳者である高橋洋の翻訳はもちろん、訳者あとがきが(個人的に)本当にすばらしい。本文中で、幾つが解消されない疑問があったのだが、まさにその部分について、あとがきで訳者が著者に直接問い合わせた解説を載せている。訳者本人が、本書の内容に並々ならぬ関心と素養をもって、翻訳に臨んでいることが窺える。

 なお、本項の感想は、現時点における私の理解に基づいている。そのため誤解がある場合もあると、事前に弁明させていただく。本項が誰かにとって刺激になればいいが。

 

Keywords: 情動, 構成主義, 脳, 概念, 内受容ネットワーク, 情動粒度

この本が関係しそうな問い

  • 情動に指標は存在するのか?
  • 情動はどこからやって来るのか?
  • うなるイヌは怒っているのか?

2. 本書の構造

 本書は全部で13章から成る。第1章では「情動の指標の探求」として、情動研究に対する著者自身の科学的アプローチの変遷を辿りながら、情動には指標が存在すると考える古典的情動理論に対して批判を行う。

 第2章から本書の提唱する構成主義的情動理論について説明が始まる。最初に、図を使った読み手に対してある面白い仕掛けがある。読者は自分自身の脳により、構成主義的理論の一端を体験する。それ以降第8章までは、ところどころ古典的情動理論と比較検討しつつ、構成主義的な理論やその妥当性について述べられる。

 第9章以降は、こうした構成主義的な理論に基づき、応用的な内容が続く。情動のコントロール方法や疾病、法律、動物の情動などについて、従来の古典的な理論に代わり、構成主義的な理論に基づくとどういった考え方ができるのか、内容が展開される。

 科学的な興味を持って読んでいる読者には、第8章までメインとなるだろう。謝辞によれば、あまりにも冗長で専門的になった3つの章を削除したとある。個人的には読んでみたかった気もする。

 また、訳者あとがきには全体の構成や、用語についての解説が記載されている。

 本書を読み解く上で前提となる『情動』、他にも『概念』、『気分』、『感情的ニッチ』等の用語についても解説が記載されている。なお、本文中の新たな用語が現れる箇所では、短い説明と「訳者あとがき参照」と注釈が度々現れるので、素直にあとがきを参照することを勧める。

3. 本書における『情動』

 私の認識では、『情動』という用語は、扱う分野や文脈によって少々意味が異なる。また、『感情』や『気分』といった用語も、分野をまたいで統一された定義はないのではないか。自分は(素人解釈だが)、『情動』は動物が捕食者に対してとる回避行動のような、ごく単純で根源的な反応であると考えていた。『情動』と『気分』は、「天気」と「天候」の関係と類似しており、気分に比べて情動は一時的である。

 そうした間違った前提で読み進めていたために、著者の記述する『情動』が自分の考える意味と異なる意味であるように感じ、細かな部分で整合性がないように思われる部分もあった。『情動』の定義は従来と変わらず、本書ではその生成についての見方を変えるものだと思っていたのだ。また本文中において明確な情動の定義はなかったように思う。

 これは自分の最後まで解消されなかった疑問のひとつだったのだが、訳者あとがきにて、翻訳者が著者に連絡を取り、解説を行ってくれている。

 その解説によれば、『情動』は身体と環境の相互作用により構築される”意識”であり、自律神経系の変化といった身体的なことから気分の性質や行動、価値観といった事柄が構築に関与している。

 訳者の述べている通り、特筆すべきは著者が『情動』を”意識”と述べており(無意識的な情動は存在しないとも)、情動の構築に『概念』が必要だと述べていることである。本書の議論の前提として、本質主義における情動の指標を批判しているので、根本的な用語の定義・解釈が異なるのは当然かもしれない。

4. 構成主義的情動理論の系譜

 情動がつくられるものだと主張したのは、著者が初めてではないようだ。構成主義的情動理論は、「構成主義」と呼ばれる、より大きく伝統的な科学的思想に属する。

 また本書によれば、本質主義的情動理論に対しての反証を提示するような研究は、1950年頃からあるそうだ。そしてこうした創成期の構成主義者たちを、著者は「失われた合唱(コーラス)」と呼ぶ。この科学者たちの論文は、著名な科学雑誌に投稿されていたようだが、長年に渡り注目を得ることは無かった。

 著者はこれを、古典的な本質主義に反証を示すことには成功したが、新たな見方である構成主義的情動理論を完全な形で提案できなかったためと分析する。

 現在では、構成主義的な心理学理論は珍しくないようで、本質主義構成主義の争いは益々激化しているようだ(原本出版当時2017年3月)。

  お互いがお互いを風刺画のようなものと見なし、心の働きを古典的理論は「生まれ」だとし、構成主義は「育ちだ」とする。しかし著者は現代の神経科学的知見から両者の風刺画を否定し、脳に関して次のように続ける。

そこに見出せるのは、つねに複雑に相互作用しつつ、文化に応じてさまざまな種類の心を生み出す中核システムなのだ。経験に基づいて配線される人間の脳は、文化的な産物である。

(中略)

脳の進化と発達、そしてその結果築かれた脳の構造は、情動の科学と人間の本性の研究が進むべき道をはっきり示していると指摘したのは、私が初めてかもしれない。

 

リサ・フェルドマン・バレット著, 高橋洋訳, "情動はこうしてつくられる", 紀伊國屋書店, p.282, (2019)

 著者はごく控えめに、自身のオリジナリティを主張する。 脳の構造過程に活路を見出しているようである。

 またこの考えは、『内受容ネットワーク』の形成は生物学的要素の影響を強く受け、『コントロールネットワーク』の形成は文化的要素の影響を強く受ける、とも解釈できるのではないか。

 情動には認知機能が前提として存在し、それは生物学的に限定される。しかしその感覚入力をどう捉えるかは、その人の培ってきた文化や思想がものをいう。著者は両者の交わる”デカルト松果体”として、脳神経の構造に可能性を見出しているのかもしれない。

5. 構成主義的情動理論とは何か?

 では、構成主義的情動理論とはなんだろうか。

 著者の主張する「構成主義」には3つの意味があるようだ。すなわち社会構成主義:文化と概念の相互作用と構築、心理構成主義:情動が脳や身体の中核システムによって構築される、神経構成主義:経験によって脳が構造的に(再)構築される、という考えである。

 また前述の通り、身体に関する予測を行う『内受容ネットワーク』と、感覚入力の重みづけを支援する『コントロールネットワーク』が情動構築の鍵となる。

 内受容ネットワークは、身体に関する予測を行い、感覚刺激と動きのシミュレーションを行い、実際の外界からの感覚刺激と比較を行う。差異がある場合は、それを経験として蓄積し、予測を修正する。こうした一連の『予測の全体』が情動の概念を生み出す。

 そしてどのような情動を認知するのかは、コントロールネットワークの支援によるところが大きい。どの感覚入力が重要と見なすのかにより、どんな情動と見なすのかも変わる。そして著者によれば、情動とはこうした外界との相互作用によって認識される”知覚(意識)”である。したがって、我々は未知の情動を認識することは出来ない。

 本文に記述のある通り、情動は普遍的なものではなく、むしろ普遍的と我々に思わせるのは、情動に関する概念や文化を一定の範囲で共有しているからではないだろうか。

 以上から端的に表現することを試みる。

 構成主義的情動理論とは、「情動は、文化や感覚刺激といった包括的外部環境と、経験や内受容といった包括的内部環境との相互作用における、主観者の既得概念を用いた、予測と実際の連鎖に対して主体によって構成される意識である」とする科学的仮説である。

 より正確性を期すならば、概念、認知、意味といった用語の定義がまず必要だろう。

6. 最後に

 著書の話す、「情動の客観的指標は存在するのか?」という疑問は、自分も持ったことがある。物事をどう受け取るのかは人それぞれの価値観に依るし、文化が違えば同じ出来事から得る感情も表現も違うかもしれない。また怒りや悲しみの表情も人によって微妙に異なる。仮に表情を情動の判別基準とすると、判別の境界設定が難しい。脳機能計測により情動を脳の活動として計測しても、実験結果の再現性を得ることは難しい。著者のように、情動の指標を求めて格闘する研究者や、頭をひねる読書好きは、少なからず存在したのではないだろうか。

 この疑問があったため、本書を書店で見かけたときには衝撃的だった。著者の構成主義という考え方は、古典的見方に硬直した私の考えを、抜本的に変えてくれたのである(自分には少々難しく、読後の現在もまだ消化できていない気がするが)。

 本書も参考資料が多く、注釈は巻末だけでなく、インターネット上にまとめページが存在する。精読するならば時間がかかりそうだ。

 とはいえ、それだけの価値のある著書ではないだろうか。構成主義的情動理論は、これまでの情動研究におけるアプローチを覆す、画期的な思想である。情動の科学的見解に興味のある読者なら、きっと刺激的だし、楽しめる。訳者が本書を、非常に重要な本と見なすのも納得である。

 ただ一方で、こうした著書の仮説が、情動研究は指標を持つような単純なものではなく、ヒトの概念構成や文化、身体内部での変化といった広範な課題を含む、ということを示唆しているようにも思う。要するに、情動研究はこれまで考えられてきたよりもずっと難しい研究だ、と。

 これからの情動研究の展開が楽しみである。

 

キレイゴトのない、誠実な卒業式スピーチ 『デヴィッド・フォスター・ウォレス, これは水です』の感想

 

これは水です

これは水です

 

 

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1. どんな本?

 

 内容としては、2005年にアメリカ、オハイオ州ガンビア、ケニオン・カレッジ(Kenyon College)の卒業式に招かれた、作家のデヴィッド・フォスター・ウォレス(David Foster Wallace)が行ったスピーチである。

 本書の帯にあるように、このスピーチは2010年のタイム誌において、スティーヴ・ジョブズを凌いで卒業式スピーチの第一位と評価された。

 話者のウォレスは、現代のアメリカで活躍していた作家で、当スピーチの他にも、ヴィトゲンシュタインの箒(The Broom of the System)、無限の道化(Infinite Jest)、ロブスター考(Consider the Lobster)等の著書で知られる。また作家業だけでなく、大学の創作学科でも教鞭をとっていたようだ。そうした活躍の一方で、20年以上鬱病に苦しめられ、2008年9月12日、46歳でその生涯を閉じる。自殺だったようだ。

 本書の冒頭には、たとえ話が登場する。ウォレス自身の言葉を借りればアメリカの卒業式スピーチによくある説教臭い寓話である。ほんとうに大切な現実は目に見えないし、言葉にするのも難しいという意味だ。しかし、こうした聞き飽きた常套句が、長い長い社会人生活においては、生きるか死ぬかの問題になりかねないという。

 本書は、そうした聞き慣れた箴言・格言についてもう一度考えること、すなわち「ものの考え方を考えること」について、知見や閃きを与えてくれる。 

 

Keywords: 卒業式スピーチ, リベラルアーツ, メタ思考

この本が関係しそうな問い

  • ものの考え方を考えること
  • 社会人の日常生活における真の自由とは何か?

2. 批判的な自意識

 スピーチの中で話される、もうひとつの小話がある。

 アラスカの辺境、バーに二人の男がいて、酒を飲みながら神の存在について話している。ひとりは信心深く、もうひとりは神を信じていない。神を信じていない男は、もうひとりの男にこんな話を聞かせる。

 先月のこと。彼はキャンプを出てから猛吹雪に襲われ、氷点下五十度の中、完璧に迷子になってしまった。彼はこのままでは死んでしまうと思い、ついに雪の上に跪いて神に助けを求めた。「もし神様がいらっしゃるのならどうか助けてください」と。

 すると二人のエスキモーが偶々そばをとおりかかり、男にキャンプへ戻る道を教えてくれた……

 この体験を、語り手の男は神などおらず偶然の出来事と解釈し、聴き手の信心深い男は祈りを聴き入れてくださった神の御業と解釈する。信条によって、同一の経験から異なる解釈が生まれるという例であるが、話者が言いたいのはこうしたことでは無い。

 こうした解釈の違いを生み出す信条や思考の枠組みは、本人の知らぬ間に出来上がってしまいがちだ。そして私達は本来的に、自己中心的な枠組みを構築しがちであり、自分を中心として世の中や世界を解釈する。だからこそ、少しばかり「批判的な自意識」を持つことが大切だという。

 私たちが「批判的な自意識」を持っていれば、そうした”初期設定”の思考を自覚することが出来るだろう。そして自覚的である限り、別の思考の枠組みを選択するという、新たな選択肢が生まれる。

3. 何を考えるか、”選ぶ”こと

 実際の社会生活においては、放っておいても勝手に他者が批判してくれるものだし、火のないところから煙が立つこともある。理不尽と不条理に溢れかえっている。だから「批判的な自意識」を持つよりはむしろ、「肯定的な自意識」を持つことの方が大切だろう。

 ここで話者が言いたいことは、もっともっと卑近で、目を背けられないほど実際的な、「私(俺)はなんで生きているんだろう?」と考えてしまうような時にこそ、必要なのだと思う。日々の生活における思考の枠組みを選ぶということは、何に目を向けるか選び、経験からどういう意味を汲み取るのか選ぶ、ということだ。

実例を挙げます。

平均的な社会人の一日です。

朝起きて、やりがいのある

大卒ホワイトカラーの仕事に出勤し

九時間か十時間、がむしゃらに働きます。

一日が終わると、ぐったりと疲れて

ストレスを溜めこみ

あとはただ、家に帰って

夕飯にありつき、たぶん二時間ほど

息抜きをしてから、早めに

バタンキューしたいだけ。

だって、翌朝も起きて

またおなじことを

繰り返さなくちゃなりませんから。

 

ところが、ふと思い出します。

家の食品が底をついていたっけ——

やりがいのある仕事が

やたらと忙しくて

今週は買う暇がなかった——

仕事帰りの車でスーパーに

立ち寄らなくちゃ。

 

デヴィッド・フォスター・ウォレス著, 阿部重夫訳, "これは水です", 田畑書店, pp.70-71, (2018)

 自分はこの箇所が好きだ。実業家や有名人の卒業式スピーチでは、とかく華々しい話や若者を鼓舞する話が多い。それはそれで、大切なものを含んでいるのだろうけれど。

 実際の社会人生活の大部分を占めるのは、こうした退屈や決まりきった日常、些細な苛立ちだ。職種に関わらず、どんな仕事も継続が大切なのは同じだろう。そして継続するということは、(効率的にやろうとするほど)決まりきった日常になりがちであり、退屈につながりやすい。

 しかし、こうした日常の瑣事こそが「何を考えるのか選ぶ」ことの始まりである、と話者は言う。

 自分が何を考えるのか選ぶという行為は、ヴィクトール・フランクルの態度価値を、自分には連想させた。日々の日常の中で、自分が何に価値を見出し、何に重きを置いて思考し、行動するのか。それは自分自身はどういう人間なのか、自分を再定義する行動ともとれる。

4. 日常生活における自由

 話者は最後に、自由について語る。自分はこれが、このスピーチで最も大切な箇所なのではないかと思う。デヴィッド・フォスター・ウォレスは、頭の中の自由(創造の自由)にも価値はあるとしたうえで、もうひとつの自由について語る。

 日常生活の中で、他人にはやさしく親切に、自分を適切に戒め、そして地道でささやかな行為を、誠実に続けること。これが本当に大切な自由である、としている。

 この部分を理解するには、これまで話者が話してきたことが助けとなる。考えることを選ぶこと、そして私たちは世界の中心ではないということ。

 そして自分なりの考えとして、自分はこれらの考えをニーバーの祈りのように解釈した。つまり、考えても仕方ないことは考えず、自分の考える価値のあることについてだけ考えるのである。考えても無駄なことは無駄であると断ずることで、本当に大切な自由を守ることが出来る。これは、”自分の自由を侵させない”という消極的な自由に当たる。

 人生において自分でコントロールできることは、そう多くない。自分がどんなに大好きでも、相手はそう思っていないこともある。どんなに健康に気を遣っても病気になることはあるし、どんなに仕事を頑張っても、落とし穴はある。

 自分の知る限り、世の中は平等に不平等である。それを悪いことのように思い、公正世界仮説のような罠に陥ってしまうのは、本書の言う”初期設定”から抜け出せないからではないだろうか。

 自分でコントロールできないことに一喜一憂せず、自分のできる誠実な行いを続けること。それが大切だと話者は主張しているのだろう。

 

 (では「積極的な自由はないのか?」と言えば、そんなことはないだろう。自分が世の中の中心ではないと了解したうえで、自分の目的のために周囲に協力を求める。それもまた良いだろう。ただ本書においては、日常生活における自由として、これ見よがしではない、前者の自由が挙げられているように思う。それに消極的自由の方が、実際の生活において重要であろう。)

5. 最後に

 この本は、自分が普段行かない書店に、何となく立ち寄った際に見つけ、衝動買いしたものだった。内容は大学の卒業式スピーチの邦訳であり、文字数としては僅かなものだ。しかし本当に示唆に富む内容であった。 

 学校を卒業あるいは退学して社会人として働くと、最初の数年は悩む暇もないほど、とにかく忙しい。覚えることが山積みである。殆どの人は、そうなのではないだろうか。なんとか仕事にも慣れ、力の抜きどころも理解し始め、私生活においても安定してきたところで、毎日の決まった生活に退屈してくる。生活が不安定でも困るのだが、安定しすぎていても不満や物足りなさを感じる。なんとも人間臭い悩みだ。しかしそれだけに切実である。

 本書はそうした日々について、ひとつの示唆を与えてくれる。

 メインテーマとして扱われていることは、「人生は、自分の考え方次第である」という古今東西広く語られてきたことのように思える。そして話者が冒頭にて話したように、そうしたありきたりな常套句について今一度考えることが、この本の要であろう。

 所謂”きれいごと”を扱う話ではなく、生活のための”実際的”な読み物として、是非お勧めしたい本である。

 余談だが、この手のひら大の本は装丁も美しい。客間に置いて、話題の種にするのもいいかもしれない。

 

歴史的リーダーと精神疾患との関わり 『ナシア・ガミー, 一流の狂気』の感想

 

一流の狂気 : 心の病がリーダーを強くする

一流の狂気 : 心の病がリーダーを強くする

 

 

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1. どんな本?

 『天才』というと、どんな人を想像するだろう?

 天才は屡々狂気と結び付けられる。古くはアリストテレスが、優れた業績を残した人物とその人物の持つ憂鬱な傾向との関連を指摘している。一方で、遺伝学者のフランシス・ゴルトンは、これとまったく逆の見方をする。彼は知能を脳の健康の指標のように考えていた。

 本書では、前者の、天才と精神疾患とを関係したものとして考える立場を取る。

 著者の主張では、『世の中が平和な時には、精神的に健康な人がリーダーとしてうまく機能しやすく、世の中が荒れているときには、精神的に病んでいるリーダーが最もうまく機能する』としている。これを『正気の反転法則』と呼ぶ。

 本書はこの主張を、心理学及び歴史学の視点から、主に政治的リーダーについて考察したものである。議論の対象となるのは、副題の『心の病がリーダーを強くする』の通り、指導者の天才ということらしい。

 ”精神的に病んでいるリーダー”として、南北戦争の際、北軍司令官のひとりとして活躍したウィリアム・シャーマン、アメリカの実業家テッド・ターナーウィンストン・チャーチル、エイブラハム・リンカン、マハトマ・ガンディーなどが登場する。またこうした人物との対比として、”精神的に健康なリーダー”も本書で考察される。

 著者のナシア・ガミー(S. Nassir Ghaemi)は医学博士であり、他にも文学士、哲学修士、公衆衛生学修士と、かなり見識が広いようである。また、本書は240もの参考文献、公開されていない資料とウェブサイトなどを根拠に議論が展開される。本当に参考文献が多く、かなり著者の熱意を感じる本だ。

 

Keywords: 天才, 精神疾患, 精神医学, 史学, 心理学的歴史学

この本が関係しそうな問い

  • 精神疾患(躁病、うつ病)は罹患者に何らかの恩恵を与えるか?
  • 精神医学から読み解く一流指導者達の歴史

2. 論理展開

本書における著者の論理展開を、少々乱暴に整理すると

 大前提:

 精神疾患のなかで躁病とうつ病には、4つの重要な要素(リアリズム:正しい現実認識、レジリエンス:反発力、エンパシー:共感、クリエイティヴィティ:創造力)が含まれている。これらの要素が、世の中が荒れているときのリーダーとしての能力に寄与する。この4つの要素は日常的な意味合いではなく、科学的に定義された意味である。

 小前提:

 歴史的に見て、荒れていた時代に傑出した能力を発揮した、一流の、あるいは天才的なリーダー達は、うつ病・躁病(精神的に不健康)であった可能性が高い。一方で、精神的に健康なリーダーが、能力を発揮できない、あるいは失敗することがある。

 安定した時代においては、精神的に健康なリーダーたちは高い成果をあげている。一方で精神疾患であった可能性が高いリーダーたちは、能力を発揮できないか、低い評価を得ていた場合がある。

 これらの例を本書では列挙し、考察する。

 結論:

 『世の中が平和な時には、精神的に健康な人がリーダーとしてうまく機能しやすく、世の中が荒れているときには、精神的に病んでいるリーダーが(4つの要素を活かし)最もうまく機能する』

 と整理できる。

 本書の主要な内容からすれば、主題の一流の狂気(主題原文:A First-Rate Madness)よりも、副題の心の病がリーダーを強くする(副題原文:Uncovering the Links between Leadership and Mental Illness)の方がより内容を表している。

3. 気になった箇所

 私がこの本を読んだ動機としては、2つある。

 ひとつは前述の通り、昔から言われている精神疾患と所謂”天才”の関係を、専門家はどのように見ているのか、ということを知りたかったから。

 ふたつめは、精神疾患の考え方について。一般論として人と異なる部分というのは、扱いによって短所にも長所にも成り得るものだ。ならば深刻な状態から回復したのなら、精神疾患への傾向もまた、活かす術があるのではないか。そんな私的な考えを検証したかった。

 結論としてはこれも前述であったように、本書の”大前提”の部分にその記述があった。躁病とうつ病には4つの重要な要素がある。うつはこれら4つの要素すべて含み、躁では創造力とレジリエンスの2つの要素が認められる。これらの考えは、どうやら科学的な実験に基づくようだ。

 本書ではそれらの要素について述べている章が幾つかある。4つの要素のうちリアリズムについて、本書の第三章『表が出れば私がつかんだ勝利、裏が出ればそれはたまたま』で解説されている。

 うつ症状のない学生グループとうつ病の症状を一定程度持つ学生グループの2群において、被験者はボタンを押し、ランプがつくかどうか観察するという実験を行った。このランプ点灯は、実は実験者側で操作されており、押せば必ず点灯するわけではない。押した際にどの程度の割合で点灯するのか操作されている。実験は「無報酬」、点灯のたび「報酬(金)あり」・「罰(金を失う)あり」の条件で行われた。

 結果は、あらゆる条件において、うつ病症状をもつ学生グループは自分がどの程度点灯を制御できているかについて、正しく判断出来ていた。一方で、うつ病症状のない学生グループは、どの程度制御できているかについて過大評価していたのである。これを「抑うつリアリズム」と呼ぶらしい。

 前述の通り、精神疾患と精神的優位性は古くから関連性が検討されてきた。本書の他にも、『創造性に富むものはよりうつ病精神疾患にかかりやすい』というシルヴィア・プラス効果など、探せば仮説は沢山見つかるだろう。

 ただ、こういった実験結果を現実の出来事に安易に結び付けて考えるのは、危険な気がする。これらは繊細な問題であり、やはり病状の渦中にいる人間は苦しい。本書はあくまで”読み物”として読むべきだと感じる。

4. 最後に

 本稿はあくまで本の感想であるので、著者の主張はともかく、読み物としての感想を述べたい。

 私には医学の素養は皆無である。しかしそれでも、著者が現代の精神医学的知識を基に、歴史的リーダーを再解釈するという本書は、非常に野心的で興味深いと感じた。読んでいて、本当にそう言い切れるのかといった疑問もある。おそらくは著者の主張にそぐわない論文や実験結果もあるだろう。また著者の主張である『世の中が平和な時』や『世の中が荒れている時』とは、どうやって定義するのか。心理学及び歴史学における挑戦的な試みである反面、論理が大枠になっているとも感じる。一般向けではあるが、医学的・史学的・心理的知識のある方ならより深く読めるだろう。本書の最後では、著者が精神疾患の”良い面”を見出そうとしていたことが窺える。

 著者の主張の信憑性について、気になった方は是非読んでみてほしい。本書には参考文献も多く、気になった箇所の根拠を辿ることもできるだろう。

 

不眠症の人間がこの名作を読んだら 『カール・ヒルティ, 眠られぬ夜のために <第1部>』の感想

 

眠られぬ夜のために〈第1部〉 (岩波文庫)

眠られぬ夜のために〈第1部〉 (岩波文庫)

 

 

 次第

1. どんな本?

 手に取れば分かるのだが、所謂小説ではない。エッセイに近いだろうか。『緒言』から始まり、1月、2月、3月…と暦のように章が進む。聖書などの文献を引用しながら、ヒルティ自身の思想や宗教観、生活の知恵を、眠られぬ夜を過ごす人のために伝える、といった内容である。

 眠れない夜は辛い。健康な人でも、一時的に眠れないことがある。また慢性的に、あるいは断続的に眠れぬ夜をすごす人には、それなりの原因があるものである。その原因から受けるストレスが不眠をもたらし、不眠が日中の不調をもたらし、さらにストレスを大きくし、また眠れない夜が来る……。自分も不眠症だった時期が数年間あり、”眠れない夜を過ごすこと”がどれほど辛いか、痛いほどわかる。

 ヒルティはこの不眠を、(適切な治療を受けるか、)せめて有効に活用しようではないか、と言っているのである。

 第2部も出版されているが、こちらは未読です。

 

Keywords: 内省, エッセイ, 眠れない夜

この本が関係しそうな問い

  • 眠れない夜をいかに過ごすべきか

2. 実際に眠れない夜に読んでいた時のこと

 あなたは一体何を欲するか。本当に落ち着いたときに、あなた自身にそれをたずね、そして正直に答えなさい。

 

 

ヒルティ著, 草間平作, 大和邦太郎訳, ”眠られぬ夜のために 第一部”, 岩波書店, pp.199-200, (1973)

  自分にとってはこれが良くも悪くも最も心に残った部分のひとつである。

 当時は眠りにつくのが遅いとか、途中で起きてしまうという程度ではなく、ただの一睡もできなかった。処方された薬を飲んでも眠ることができない。40時間起きて8時間寝るというようなサイクルだった。

 寧ろお得じゃん! めっちゃ仕事してやろ! という発想になったこともあった。ヒルティの言う通り、現状で治癒が難しいのならば、不眠という状況に順応する方が生産的だ。しかし眠くない(眠れない)だけで、疲労はたまるのである。頭の中は常に徹夜明け状態のような感じだった。だから単純作業なら生産性は少し上がるが、考えるような作業はとにかくできない。本当に当時は死ぬかと思った。

 ある日の夜、また眠れないのでこの本の続きを読んでいた時に、この箇所に行きついた。こうした自分自身が非常に弱った時、自分の欲望や希望を問うことは非常に有用だと思う。なぜなら自分の思考を不安から逸らすことが出来るし、端的に、自分のしたいことを考えてワクワクするのは楽しい。それに辛い状況であればあるほど、他人の目や自分のプライドなど、余計なものを度外視した、自分の純粋な欲求を見出しやすい。

 当時自分から出てきた答えは、「恋人か女房(旦那)が(いれば)」だった。我ながら素朴な答えが出てきたなーとその時は思っていた。無自覚ではあったが、もしかしたら人間関係に疲れていて、他人からの癒しや安心が欲しかったのかもしれない。

 この発見から実際の行動を起こせばよかったんですがね、ええ。 

3. 最後に

  本書には、内省的かつポジティブな考えが散りばめられている。他にも、他人から不正を受けたときの考え方や、人間関係等、現代の自分たちにとってもそう疎遠ではないトピックばかりだ。100年以上前の人たちが、今の自分たちと同じようなことに悩み、苦しみ、ヒルティがそんな人たちのために本書を書いたと思うと、なかなか感慨深いものがある。

 眠れられぬ夜を過ごす人も、そうでない人も、読めば何かしら心に響く箇所があるかもしれない。