サトウタナカの手記

徒然なるままに、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつけるブログ

キレイゴトのない、誠実な卒業式スピーチ 『デヴィッド・フォスター・ウォレス, これは水です』の感想

 

これは水です

これは水です

 

 

次第

 

1. どんな本?

 

 内容としては、2005年にアメリカ、オハイオ州ガンビア、ケニオン・カレッジ(Kenyon College)の卒業式に招かれた、作家のデヴィッド・フォスター・ウォレス(David Foster Wallace)が行ったスピーチである。

 本書の帯にあるように、このスピーチは2010年のタイム誌において、スティーヴ・ジョブズを凌いで卒業式スピーチの第一位と評価された。

 話者のウォレスは、現代のアメリカで活躍していた作家で、当スピーチの他にも、ヴィトゲンシュタインの箒(The Broom of the System)、無限の道化(Infinite Jest)、ロブスター考(Consider the Lobster)等の著書で知られる。また作家業だけでなく、大学の創作学科でも教鞭をとっていたようだ。そうした活躍の一方で、20年以上鬱病に苦しめられ、2008年9月12日、46歳でその生涯を閉じる。自殺だったようだ。

 本書の冒頭には、たとえ話が登場する。ウォレス自身の言葉を借りればアメリカの卒業式スピーチによくある説教臭い寓話である。ほんとうに大切な現実は目に見えないし、言葉にするのも難しいという意味だ。しかし、こうした聞き飽きた常套句が、長い長い社会人生活においては、生きるか死ぬかの問題になりかねないという。

 本書は、そうした聞き慣れた箴言・格言についてもう一度考えること、すなわち「ものの考え方を考えること」について、知見や閃きを与えてくれる。 

 

Keywords: 卒業式スピーチ, リベラルアーツ, メタ思考

この本が関係しそうな問い

  • ものの考え方を考えること
  • 社会人の日常生活における真の自由とは何か?

2. 批判的な自意識

 スピーチの中で話される、もうひとつの小話がある。

 アラスカの辺境、バーに二人の男がいて、酒を飲みながら神の存在について話している。ひとりは信心深く、もうひとりは神を信じていない。神を信じていない男は、もうひとりの男にこんな話を聞かせる。

 先月のこと。彼はキャンプを出てから猛吹雪に襲われ、氷点下五十度の中、完璧に迷子になってしまった。彼はこのままでは死んでしまうと思い、ついに雪の上に跪いて神に助けを求めた。「もし神様がいらっしゃるのならどうか助けてください」と。

 すると二人のエスキモーが偶々そばをとおりかかり、男にキャンプへ戻る道を教えてくれた……

 この体験を、語り手の男は神などおらず偶然の出来事と解釈し、聴き手の信心深い男は祈りを聴き入れてくださった神の御業と解釈する。信条によって、同一の経験から異なる解釈が生まれるという例であるが、話者が言いたいのはこうしたことでは無い。

 こうした解釈の違いを生み出す信条や思考の枠組みは、本人の知らぬ間に出来上がってしまいがちだ。そして私達は本来的に、自己中心的な枠組みを構築しがちであり、自分を中心として世の中や世界を解釈する。だからこそ、少しばかり「批判的な自意識」を持つことが大切だという。

 私たちが「批判的な自意識」を持っていれば、そうした”初期設定”の思考を自覚することが出来るだろう。そして自覚的である限り、別の思考の枠組みを選択するという、新たな選択肢が生まれる。

3. 何を考えるか、”選ぶ”こと

 実際の社会生活においては、放っておいても勝手に他者が批判してくれるものだし、火のないところから煙が立つこともある。理不尽と不条理に溢れかえっている。だから「批判的な自意識」を持つよりはむしろ、「肯定的な自意識」を持つことの方が大切だろう。

 ここで話者が言いたいことは、もっともっと卑近で、目を背けられないほど実際的な、「私(俺)はなんで生きているんだろう?」と考えてしまうような時にこそ、必要なのだと思う。日々の生活における思考の枠組みを選ぶということは、何に目を向けるか選び、経験からどういう意味を汲み取るのか選ぶ、ということだ。

実例を挙げます。

平均的な社会人の一日です。

朝起きて、やりがいのある

大卒ホワイトカラーの仕事に出勤し

九時間か十時間、がむしゃらに働きます。

一日が終わると、ぐったりと疲れて

ストレスを溜めこみ

あとはただ、家に帰って

夕飯にありつき、たぶん二時間ほど

息抜きをしてから、早めに

バタンキューしたいだけ。

だって、翌朝も起きて

またおなじことを

繰り返さなくちゃなりませんから。

 

ところが、ふと思い出します。

家の食品が底をついていたっけ——

やりがいのある仕事が

やたらと忙しくて

今週は買う暇がなかった——

仕事帰りの車でスーパーに

立ち寄らなくちゃ。

 

デヴィッド・フォスター・ウォレス著, 阿部重夫訳, "これは水です", 田畑書店, pp.70-71, (2018)

 自分はこの箇所が好きだ。実業家や有名人の卒業式スピーチでは、とかく華々しい話や若者を鼓舞する話が多い。それはそれで、大切なものを含んでいるのだろうけれど。

 実際の社会人生活の大部分を占めるのは、こうした退屈や決まりきった日常、些細な苛立ちだ。職種に関わらず、どんな仕事も継続が大切なのは同じだろう。そして継続するということは、(効率的にやろうとするほど)決まりきった日常になりがちであり、退屈につながりやすい。

 しかし、こうした日常の瑣事こそが「何を考えるのか選ぶ」ことの始まりである、と話者は言う。

 自分が何を考えるのか選ぶという行為は、ヴィクトール・フランクルの態度価値を、自分には連想させた。日々の日常の中で、自分が何に価値を見出し、何に重きを置いて思考し、行動するのか。それは自分自身はどういう人間なのか、自分を再定義する行動ともとれる。

4. 日常生活における自由

 話者は最後に、自由について語る。自分はこれが、このスピーチで最も大切な箇所なのではないかと思う。デヴィッド・フォスター・ウォレスは、頭の中の自由(創造の自由)にも価値はあるとしたうえで、もうひとつの自由について語る。

 日常生活の中で、他人にはやさしく親切に、自分を適切に戒め、そして地道でささやかな行為を、誠実に続けること。これが本当に大切な自由である、としている。

 この部分を理解するには、これまで話者が話してきたことが助けとなる。考えることを選ぶこと、そして私たちは世界の中心ではないということ。

 そして自分なりの考えとして、自分はこれらの考えをニーバーの祈りのように解釈した。つまり、考えても仕方ないことは考えず、自分の考える価値のあることについてだけ考えるのである。考えても無駄なことは無駄であると断ずることで、本当に大切な自由を守ることが出来る。これは、”自分の自由を侵させない”という消極的な自由に当たる。

 人生において自分でコントロールできることは、そう多くない。自分がどんなに大好きでも、相手はそう思っていないこともある。どんなに健康に気を遣っても病気になることはあるし、どんなに仕事を頑張っても、落とし穴はある。

 自分の知る限り、世の中は平等に不平等である。それを悪いことのように思い、公正世界仮説のような罠に陥ってしまうのは、本書の言う”初期設定”から抜け出せないからではないだろうか。

 自分でコントロールできないことに一喜一憂せず、自分のできる誠実な行いを続けること。それが大切だと話者は主張しているのだろう。

 

 (では「積極的な自由はないのか?」と言えば、そんなことはないだろう。自分が世の中の中心ではないと了解したうえで、自分の目的のために周囲に協力を求める。それもまた良いだろう。ただ本書においては、日常生活における自由として、これ見よがしではない、前者の自由が挙げられているように思う。それに消極的自由の方が、実際の生活において重要であろう。)

5. 最後に

 この本は、自分が普段行かない書店に、何となく立ち寄った際に見つけ、衝動買いしたものだった。内容は大学の卒業式スピーチの邦訳であり、文字数としては僅かなものだ。しかし本当に示唆に富む内容であった。 

 学校を卒業あるいは退学して社会人として働くと、最初の数年は悩む暇もないほど、とにかく忙しい。覚えることが山積みである。殆どの人は、そうなのではないだろうか。なんとか仕事にも慣れ、力の抜きどころも理解し始め、私生活においても安定してきたところで、毎日の決まった生活に退屈してくる。生活が不安定でも困るのだが、安定しすぎていても不満や物足りなさを感じる。なんとも人間臭い悩みだ。しかしそれだけに切実である。

 本書はそうした日々について、ひとつの示唆を与えてくれる。

 メインテーマとして扱われていることは、「人生は、自分の考え方次第である」という古今東西広く語られてきたことのように思える。そして話者が冒頭にて話したように、そうしたありきたりな常套句について今一度考えることが、この本の要であろう。

 所謂”きれいごと”を扱う話ではなく、生活のための”実際的”な読み物として、是非お勧めしたい本である。

 余談だが、この手のひら大の本は装丁も美しい。客間に置いて、話題の種にするのもいいかもしれない。