サトウタナカの手記

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うなるイヌは怒っているのか? 『リサ・フェルドマン・バレット, 情動はこうしてつくられる』の感想

 

How Emotions Are Made: The Secret Life of the Brain

How Emotions Are Made: The Secret Life of the Brain

  • 作者:Lisa Feldman Barrett
  • 出版社/メーカー: Pan Books
  • 発売日: 2018/02/08
  • メディア: ペーパーバック
 

 

次第

 

1. どんな本?

 我々は、感情を外部環境や身体内部のある要因に対して起こる”反応”と考えがちである。そして古典心理学においては、こうした”反応”には、発汗や体温の上昇、脳の特定領域が反応する等、身体的な指標があると考えられてきた。

 しかし本書では、 『情動』が脳機能によって構築される”知覚(意識)”であると主張する。

 主題を情動はこうしてつくられる(主題原文:How Emotions Are Made)とし、これまでの本質主義的な心理学を批判し、新たな見方として、構成主義的なアプローチを提案する。

 また、副題である脳の隠れた働きと構成主義的情動理論(副題原文:The Secret Life of the Brain)の通り、身体に関する予測を行う脳機能である『内受容ネットワーク』と、感覚入力のうちどれが重要か、その判断を支援する脳機能である『コントロールネットワーク』が情動構築の鍵となる。

 著者のリサ・フェルドマン・バレット(Lisa Feldman Barrett)はアメリカ、ノースイースタン大学心理学部特別教授であり、ハーバード大学医学部マサチューセッツ総合病院研究員である。著者は大学院生当時、自己評価が下がる原因及びそれが不安や抑うつを引き起こす過程について研究していた。先行研究から得られた知見を基に実験を行ったが、彼女の研究は大失敗に終わる。しかし、その失敗したはずの一連の実験データを見返すと、新しい知見が見えてくる。この出来事が、彼女が古典的情動理論に疑問を持つ切欠となったようだ。

 また翻訳者である高橋洋の翻訳はもちろん、訳者あとがきが(個人的に)本当にすばらしい。本文中で、幾つが解消されない疑問があったのだが、まさにその部分について、あとがきで訳者が著者に直接問い合わせた解説を載せている。訳者本人が、本書の内容に並々ならぬ関心と素養をもって、翻訳に臨んでいることが窺える。

 なお、本項の感想は、現時点における私の理解に基づいている。そのため誤解がある場合もあると、事前に弁明させていただく。本項が誰かにとって刺激になればいいが。

 

Keywords: 情動, 構成主義, 脳, 概念, 内受容ネットワーク, 情動粒度

この本が関係しそうな問い

  • 情動に指標は存在するのか?
  • 情動はどこからやって来るのか?
  • うなるイヌは怒っているのか?

2. 本書の構造

 本書は全部で13章から成る。第1章では「情動の指標の探求」として、情動研究に対する著者自身の科学的アプローチの変遷を辿りながら、情動には指標が存在すると考える古典的情動理論に対して批判を行う。

 第2章から本書の提唱する構成主義的情動理論について説明が始まる。最初に、図を使った読み手に対してある面白い仕掛けがある。読者は自分自身の脳により、構成主義的理論の一端を体験する。それ以降第8章までは、ところどころ古典的情動理論と比較検討しつつ、構成主義的な理論やその妥当性について述べられる。

 第9章以降は、こうした構成主義的な理論に基づき、応用的な内容が続く。情動のコントロール方法や疾病、法律、動物の情動などについて、従来の古典的な理論に代わり、構成主義的な理論に基づくとどういった考え方ができるのか、内容が展開される。

 科学的な興味を持って読んでいる読者には、第8章までメインとなるだろう。謝辞によれば、あまりにも冗長で専門的になった3つの章を削除したとある。個人的には読んでみたかった気もする。

 また、訳者あとがきには全体の構成や、用語についての解説が記載されている。

 本書を読み解く上で前提となる『情動』、他にも『概念』、『気分』、『感情的ニッチ』等の用語についても解説が記載されている。なお、本文中の新たな用語が現れる箇所では、短い説明と「訳者あとがき参照」と注釈が度々現れるので、素直にあとがきを参照することを勧める。

3. 本書における『情動』

 私の認識では、『情動』という用語は、扱う分野や文脈によって少々意味が異なる。また、『感情』や『気分』といった用語も、分野をまたいで統一された定義はないのではないか。自分は(素人解釈だが)、『情動』は動物が捕食者に対してとる回避行動のような、ごく単純で根源的な反応であると考えていた。『情動』と『気分』は、「天気」と「天候」の関係と類似しており、気分に比べて情動は一時的である。

 そうした間違った前提で読み進めていたために、著者の記述する『情動』が自分の考える意味と異なる意味であるように感じ、細かな部分で整合性がないように思われる部分もあった。『情動』の定義は従来と変わらず、本書ではその生成についての見方を変えるものだと思っていたのだ。また本文中において明確な情動の定義はなかったように思う。

 これは自分の最後まで解消されなかった疑問のひとつだったのだが、訳者あとがきにて、翻訳者が著者に連絡を取り、解説を行ってくれている。

 その解説によれば、『情動』は身体と環境の相互作用により構築される”意識”であり、自律神経系の変化といった身体的なことから気分の性質や行動、価値観といった事柄が構築に関与している。

 訳者の述べている通り、特筆すべきは著者が『情動』を”意識”と述べており(無意識的な情動は存在しないとも)、情動の構築に『概念』が必要だと述べていることである。本書の議論の前提として、本質主義における情動の指標を批判しているので、根本的な用語の定義・解釈が異なるのは当然かもしれない。

4. 構成主義的情動理論の系譜

 情動がつくられるものだと主張したのは、著者が初めてではないようだ。構成主義的情動理論は、「構成主義」と呼ばれる、より大きく伝統的な科学的思想に属する。

 また本書によれば、本質主義的情動理論に対しての反証を提示するような研究は、1950年頃からあるそうだ。そしてこうした創成期の構成主義者たちを、著者は「失われた合唱(コーラス)」と呼ぶ。この科学者たちの論文は、著名な科学雑誌に投稿されていたようだが、長年に渡り注目を得ることは無かった。

 著者はこれを、古典的な本質主義に反証を示すことには成功したが、新たな見方である構成主義的情動理論を完全な形で提案できなかったためと分析する。

 現在では、構成主義的な心理学理論は珍しくないようで、本質主義構成主義の争いは益々激化しているようだ(原本出版当時2017年3月)。

  お互いがお互いを風刺画のようなものと見なし、心の働きを古典的理論は「生まれ」だとし、構成主義は「育ちだ」とする。しかし著者は現代の神経科学的知見から両者の風刺画を否定し、脳に関して次のように続ける。

そこに見出せるのは、つねに複雑に相互作用しつつ、文化に応じてさまざまな種類の心を生み出す中核システムなのだ。経験に基づいて配線される人間の脳は、文化的な産物である。

(中略)

脳の進化と発達、そしてその結果築かれた脳の構造は、情動の科学と人間の本性の研究が進むべき道をはっきり示していると指摘したのは、私が初めてかもしれない。

 

リサ・フェルドマン・バレット著, 高橋洋訳, "情動はこうしてつくられる", 紀伊國屋書店, p.282, (2019)

 著者はごく控えめに、自身のオリジナリティを主張する。 脳の構造過程に活路を見出しているようである。

 またこの考えは、『内受容ネットワーク』の形成は生物学的要素の影響を強く受け、『コントロールネットワーク』の形成は文化的要素の影響を強く受ける、とも解釈できるのではないか。

 情動には認知機能が前提として存在し、それは生物学的に限定される。しかしその感覚入力をどう捉えるかは、その人の培ってきた文化や思想がものをいう。著者は両者の交わる”デカルト松果体”として、脳神経の構造に可能性を見出しているのかもしれない。

5. 構成主義的情動理論とは何か?

 では、構成主義的情動理論とはなんだろうか。

 著者の主張する「構成主義」には3つの意味があるようだ。すなわち社会構成主義:文化と概念の相互作用と構築、心理構成主義:情動が脳や身体の中核システムによって構築される、神経構成主義:経験によって脳が構造的に(再)構築される、という考えである。

 また前述の通り、身体に関する予測を行う『内受容ネットワーク』と、感覚入力の重みづけを支援する『コントロールネットワーク』が情動構築の鍵となる。

 内受容ネットワークは、身体に関する予測を行い、感覚刺激と動きのシミュレーションを行い、実際の外界からの感覚刺激と比較を行う。差異がある場合は、それを経験として蓄積し、予測を修正する。こうした一連の『予測の全体』が情動の概念を生み出す。

 そしてどのような情動を認知するのかは、コントロールネットワークの支援によるところが大きい。どの感覚入力が重要と見なすのかにより、どんな情動と見なすのかも変わる。そして著者によれば、情動とはこうした外界との相互作用によって認識される”知覚(意識)”である。したがって、我々は未知の情動を認識することは出来ない。

 本文に記述のある通り、情動は普遍的なものではなく、むしろ普遍的と我々に思わせるのは、情動に関する概念や文化を一定の範囲で共有しているからではないだろうか。

 以上から端的に表現することを試みる。

 構成主義的情動理論とは、「情動は、文化や感覚刺激といった包括的外部環境と、経験や内受容といった包括的内部環境との相互作用における、主観者の既得概念を用いた、予測と実際の連鎖に対して主体によって構成される意識である」とする科学的仮説である。

 より正確性を期すならば、概念、認知、意味といった用語の定義がまず必要だろう。

6. 最後に

 著書の話す、「情動の客観的指標は存在するのか?」という疑問は、自分も持ったことがある。物事をどう受け取るのかは人それぞれの価値観に依るし、文化が違えば同じ出来事から得る感情も表現も違うかもしれない。また怒りや悲しみの表情も人によって微妙に異なる。仮に表情を情動の判別基準とすると、判別の境界設定が難しい。脳機能計測により情動を脳の活動として計測しても、実験結果の再現性を得ることは難しい。著者のように、情動の指標を求めて格闘する研究者や、頭をひねる読書好きは、少なからず存在したのではないだろうか。

 この疑問があったため、本書を書店で見かけたときには衝撃的だった。著者の構成主義という考え方は、古典的見方に硬直した私の考えを、抜本的に変えてくれたのである(自分には少々難しく、読後の現在もまだ消化できていない気がするが)。

 本書も参考資料が多く、注釈は巻末だけでなく、インターネット上にまとめページが存在する。精読するならば時間がかかりそうだ。

 とはいえ、それだけの価値のある著書ではないだろうか。構成主義的情動理論は、これまでの情動研究におけるアプローチを覆す、画期的な思想である。情動の科学的見解に興味のある読者なら、きっと刺激的だし、楽しめる。訳者が本書を、非常に重要な本と見なすのも納得である。

 ただ一方で、こうした著書の仮説が、情動研究は指標を持つような単純なものではなく、ヒトの概念構成や文化、身体内部での変化といった広範な課題を含む、ということを示唆しているようにも思う。要するに、情動研究はこれまで考えられてきたよりもずっと難しい研究だ、と。

 これからの情動研究の展開が楽しみである。